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最終更新日 2025年8月11日

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令和7年8月の「区長の談話室」(ゲスト:保阪 正康氏)

令和7年8月の区長の談話室

令和7年8月放送(8月3日・10日) 区長の談話室「戦後80年、平和を伝えていく!<前編>」

※8月10日は、8月3日の再放送です。

ゲストに、ノンフィクション作家・評論家の保阪 正康氏をお招きし、「戦後80年、平和を伝えていく!<前編>」をテーマにお送りしました。

今年は、戦後80年、また世田谷区平和都市宣言から40年、せたがや未来の平和館の開館10年の節目の年にあたります。

平和を守り次世代に引き継いでいくため、私たちに何ができるのか、身近にできることを一緒に考えましょう。

テーマ・ゲスト紹介

  • パーソナリティ:区長の談話室、今日も保坂展人区長とはじめていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
  • 区長:はい、よろしくお願いします。
  • パーソナリティ:今日は戦後80年の年を迎えて平和の大切さを考えてまいります。では早速ゲストをご紹介しましょう。作家で評論家の保阪正康さんです。保阪先生よろしくお願いいたします。
  • 保阪氏:よろしくお願いいたします。
  • パーソナリティ:区長、保阪先生は大変著名な方でいらっしゃいますけれども、改めてご紹介をお願いします。
  • 区長:はい。私も保阪正康先生の本当に多数に渡るご著書があるんですけれども、特に戦場に行かれた旧軍人の方々の克明なインタビュー。それは最高指導者であった東条英機氏も含めて様々な4千人に及ぶ聞き書きをされて、昭和史についてご提言をされている。しかもそこは私たちが必ずしも押さえていない知らない新しい事実も常に提出して頂くという本当に貴重な存在で、お忙しい中、今日は来ていただきました。ありがとうございます。

幼い頃に聞いた戦争の話

  • パーソナリティ:ありがとうございます。保阪先生にはたくさんお話を伺っていこうと思いますが、まず区長、今日は戦後80年平和の大切さという事なんですが、区長にとって戦争のお話というのは、もちろん体験はされていらっしゃらないので、どういうふうに今まで聞いてきていらっしゃるんですか。
  • 区長:私は昭和30年1955年生まれなので、ちょうど戦争が終わって10年後に生まれた世代です。小学校の頃になると、戦後20年くらいですかね。当時夕飯時の父や母やおばあちゃんの会話っていうのは、もう戦争の話が多かったですね。空襲の話、屋根に火が移って消したんだっていう話だとか。軍事工場に母は女子学生の時に動員されて、横須賀に行ったんだという話とか、そういう過去の体験が強烈だったんでしょうね。そういうことで子どもの頃の父や母、家族から聞いた話が一番強い印象になっていて、その後、戦争体験をされた方のお話も今に至るまで聞き続けてきた、そんな感じです。
  • パーソナリティ:子どもの時にそれを聞かれてどういう思いでしたか。
  • 区長:みんななかなか本来は勝てない戦争じゃないかというところ、クエスチョンマークが少しありながら、最後はやっぱり熱狂していくというか、やっぱり神風が吹くという事を、家の母なんかは最後まで信じていたというふうに言いますし。ですからそういう状態がどうして生まれたんだろうと、何故誰かが止めるという事ができなかったんだろうかという事を子どもながらに思いましたね。

なぜ太平洋戦争は起きたのか

  • パーソナリティ:保阪先生、お伺いしたいのですが、過去の戦争においてまずは何故その戦争が起きたのかというところ。歴史的にどうしてこういったことが起きてしまったのかという事がまず最初だと思うのですが、その辺について色々な側面があるとは思うのですが、教えていただけますか。
  • 保阪氏:それはどの地点で話をはじめるかによって随分違いますけれども、いわゆる今年は昭和100年ということで、昭和に入ってからの話というので始めると、日本は昭和6年の9月に日本の関東軍というのがあったんですが、それが満州事変というものを起こしたんですね。満州で謀略で鉄道を爆破して、その鉄道を爆破したのを理由に日本軍が、まぁ関東軍なんですが、中国の満州付近にずっと入って行って、東三省というんですが、中国の3つの省をおさえて、満州国というのを昭和7年の3月には作っちゃうんですね。それがきっかけになって、その国を、傀儡国家ですね、それを作って、それから中国に持っている権益の中で北京の周辺での軍事訓練なんかもしょっちゅうやっていたんですが、昭和12年の7月に北京郊外の盧溝橋でですね、日本軍と中国軍が衝突すると。それが小さな衝突だったんですが、日本軍はそれを機会に軍を大量に送り込んで中国に入って行くわけです。中国に入って行って、いわゆる当時は支那事変と言いましたけれども、日中戦争ですね。この日中戦争が昭和12年7月からはじまって、本格的に13年14年と。日本の軍部はすぐ勝つということで、一撃のもとに中国を屈服させるんだというので甘く考えていたんですが、中国はそんな簡単なわけではなくて、抵抗してですね、日本軍と五分五分で戦うような状況になっていって。結局日本が、泥沼に入るという言葉をよく使うのですが、日中戦争で泥沼に入って行くと。日本が中国に勝てないのは中国を支援しているアメリカやイギリスのせいなんだと言って、アメリカイギリスとの関係が悪化していくんですね。その悪化していく交渉が行われたりするのですが、結局その交渉が上手くいかずに昭和16年の12月8日、日本の海軍はアメリカのハワイ真珠湾攻撃を行って、いわゆる太平洋戦争がはじまるわけです。当時は大東亜戦争と言ったんですが、その戦争がはじまるわけですね。いってみれば、満州事変、日中戦争、対米英戦争、なにかこう日本の軍部が軍事的に一方的に兵を進めるという形で起こったというのがひとつの特徴かなという感じはしますね。
  • パーソナリティ:急激にというか、もの凄く早く戦争に向かっていったようなイメージが今すごくしたのですけれども。
  • 保阪氏:結局ですね、その日中戦争、今僕らは日中戦争というんですけれども、日中戦争が泥沼に入って解決しない、中国の抵抗が強いと言って、日本の軍部はイライラして。これはアメリカやイギリスの支援する、支援するという事は軍事物資を支援したり、薬品を提供したり、あるいは色んな戦略の知恵をつけたりですね、日本軍の弱いところを徹底的に突いてくるわけですね。結局、アメリカ、イギリスと戦って、そこで勝利を得なければ日中戦争は片付かないというので戦争に入るわけですけれども、このひとつずつ入って行く中ではですね、軍事が全部仕切ったわけですね。政治はほとんど発言権がない。政治を代表していたのは近衛という首相なんですが、近衛がどうかして外交交渉で戦争をしないで済むように決着をつけたいんだけど、と言っても、軍を代表していた東条英機が、そんなことはできないと、やっぱり軍事で解決する以外ないと言って、軍事ですからね、軍で解決するというのには話し合いはむしろあまり必要じゃないという立場ですから。だから一見するとこんなに早くすぐ戦争に入るのっていう感じで戦争に入ってますね。
  • 区長:当時の記録を見ると、やっぱり戦争の初め、日中戦争においても、やはり国民が大歓迎したり喝采を叫んだりというような事があって。それはやはりマスコミが提供する情報は軍にとって都合のいい情報ですよね。要するに正義の鉄槌を下したというような内容で。いや待って、それは際限がなくなるんじゃないか、どこまでも拡大してしまうのではないかという慎重論、抑制論というのが一番当初はあったというふうに聞いていますけれども、だんだん勢いづいてくると、そういうことを言うだけで非国民であるという事で、言論の自由がなくなっていく。本当は政治が抑えていかなければならないんですけれども、政治が軍の方針に色々物を言う事自体がまかりならんというですね、そういう空気が作られて、政治もものを言わなくなり、大政翼賛会という政党は解散してしまうという中で、批判者が表立って出て来れなくなったということが背景にあったように思います。
  • パーソナリティ:そういう世の中が作られていってしまうという事ですか。
  • 保阪氏:軍事がやっぱり政治に対して威圧をかけるわけですね。政治の側はやっぱり軍事が怖いわけですよ。軍事というのは、その前、盧溝橋事変の前は二・二六事件とかテロとかそういうのを起こしていますからね。やはり暴力的な軍事の怖さっていうのを政治家は知っていますから、どうしても軍が勢いよく出てくるとちょっと黙っちゃうんですね。ただそうは言いながら日中戦争というのにも、長引くたびに日本も早く解決してくれっていう国民の声も大きくなる。同時に早く解決するためには軍が早いとこ強くなって一撃で解決してくれというのと、いやもういい加減に軍を引いて戦争を治めろよという考えと二つあるんですが、日本では軍を引いて戦争を治めろよという考えは、軍によって弾圧されますから。だから結局は、中国と徹底的に戦うんだという形の方向にいって、その方向がアメリカ、イギリスとの戦争にもなっていくっていうことですね。

戦争が起きる3つの理由

  • パーソナリティ:よく戦争をすることによって、じゃあ誰が得をするのかという話が良く出てくると思うのですが、本当に何の得もないというふうに私自身は思うのですが。でもその時代もやっぱりそれでも戦争をする方が、というふうに考える人たちに全てが飲み込まれていったということなんですか。
  • 保阪氏:戦争をなんでするかと言ったら、大きく分けて3つの理由があって、ひとつは領土の拡大。自分たちの領土を、生存権というんだけれど、生存権を拡大するという事。それから二つ目はその領土が持っている資源。領土から採れる農作物もあるし、そういうものを軍で抑えることによって領域なしに、関税なしに手に入れることができるわけですよ。それが二つ目ですね。三つめは国威。国威というのは国のプレステージ。国の威勢が元気が良くなって日本は一等国だと、そんな弱い国と違うんだと。ですから、国権、国の権利、国威、国の威力ね、それから国益、この三つがやっぱり戦争の理由ですよ。日本はその通りの戦争をやっているんですよ。
  • パーソナリティ:今お話を伺って、その三つというのは、今現在も世界で始まってしまった戦争いくつかありますけれども、そこにも今まだ当てはまっているという感じもしますし、でもそれによって失われるものの方が非常に多いと思うんですけれど、区長はどう思われますか。
  • 区長:ウクライナに攻め込んだロシアはまさに領土の拡張、領土というよりは元々ロシアの一員なんだという事でプーチン的正義を力で示すという事ですよね。ただ一説によるともう100万人近いロシア兵が亡くなっていると。もうすごいことですよね。ウクライナでも多く亡くなっていますけれども。しかしそれだけの犠牲を払って、じゃあ何を得るのかっていうと、ようやくロシアの軍事支出が石油なり天然ガスの売却の収益をはるかに超えてきたらしいんですね。それで軍事予算を少し抑えた方がいいという事を初めてプーチン大統領が言い始めたんですけれども。でもやはり軍事は自己完結的に暴走していくので、やっぱり戦時下の日本もどんどん国債を発行して、戦時国債ですね。予算の総力というかかき集めて全部を、鍋窯までですね、人々が兵器を作るために差し出してというような、相当膨張しきった特殊な経済というか、社会を作ってしまったんですよね。
  • 保阪氏:日本の大蔵官僚に話を聞くと、昭和6年の満州事変から戦時予算を組むわけですよ。戦時予算というのは一般予算の中の軍事費が高く、30%40%とだんだん上がるんだけれど、それと別に議会やなんかに全く何に使ったか報告しなくて済む臨時軍事費というのがあって、臨軍費というんだけれど。大蔵省に臨軍費を出せと軍が圧力をかけて、大蔵省はその臨軍費を予算の中から割いていって、別建てで臨軍費を一般会計予算と一緒に出すわけで、それで国家予算なんかはガタガタになる。大蔵省の主計の官僚が昭和6年から昭和20年まで、我々は戦時予算しか組んだことなかったんですよと言ったことがある。つまり一般会計予算の平時のが組めないわけですよ。臨時の軍事費というのを別建てでやるから。その税収は何処からと言ったら一般の税収から持ってくる、あるいは色んな理由を付けて税収を上げて、そっちを臨時軍事費に回す。つまり戦争をするという事は元手がかかるという事ですよ。その元手を大蔵官僚は一生懸命どうやって捻出するか、大変頭を使って。だから大蔵官僚にすれば、俺たちは軍の下請けじゃないと愚痴を言っても、そんなことを言ったら表立ったら大変だから小さな声でぼそぼそ言ってたと言ってましたけれどね。だから国の体制そのものが戦争によって基本的な枠組みが崩れるんですね。それがやっぱり日中戦争が長期化することによってだんだん崩れる。だからもう、えい、イギリス、アメリカが支援するからだ、やっちゃえというふうになる理由でもあったんですね。

区で行う平和への取組み~「せたがや未来の平和館」開館10周年

  • パーソナリティ:すべての事がちょっと常識とは違う事が、それが当たり前になっていって、どこかで違うと思っていても発言ができないという。もう本当にあってはいけないことが起きて、この先こんなことがもう絶対に起きてならないという事を改めて、なぜ戦争が起きたのかというところをお聞きしたことによって思ったのですが。区長、世田谷区では平和への取り組みについて非常に深く行っていると思うのですが、区の平和の取り組みについて教えていただけますか。
  • 区長:はい。今年はちょうど戦争が終結して80年目にあたるんですが、10年前の戦後70年を記念して、世田谷公園の中に、せたがや未来の平和館、平和資料館ですね、こちらを開設しました。10年経ってずいぶんですね、ここに結構立派なパンフレットができているんですね。
  • パーソナリティ:平和な未来をせたがやから、というパンフレットですね。
  • 区長:そうですね。平和な未来をせたがやから、というね。これは区民の方から寄せられた戦時下の生活や、あるいは軍隊に行った方の持ち帰った物、そういった衣装から日記から戦時郵便だったりとか、色んなものが展示をされています。最初はその展示が主だったんですけれども、その後今、藤咲さんが言われたように、どうして戦争が起きたんだろうか、その時の人々の思いはどうだったんだろうかというところにだんだん掘り下げていく企画になり、後はまた若い世代が戦争体験者、あるいは空襲や疎開の経験を持つ高齢の区民の方にお話を直接うかがって、実際にその現場を訪ねたり。世田谷区内も一部ではありますけれども、やはり空襲の被害で焼け出されたところもあります。そういった検証の活動を次の世代に向けて繋いでいく場として、ちょうど10年目を迎えているので、ぜひ世田谷公園の一角に、プールの横と言えばわかりますかね、平屋建てのそんなに大きくないスペースなので一度訪ねてみて頂きたいと思います。
  • パーソナリティ:池尻1丁目の世田谷公園の中にあるという事で、本当に見やすく色々な資料が置いてあって、本当に何回行っても色々な事が勉強になって考えさせられる場所だと思います。ぜひ皆さん、世田谷公園に行かれた際には立ち寄って頂きたいと思います。という事で、今日は何故戦争が起きたのかという、本当に大元のところをまずはちょっとお聞きしたいなと思って、今日は前編という事でお話をお伺いしたのですが、来月も平和について先生とそして区長にもお話をお伺いしていこうと思っています。前編のまとめとしてせたがや未来の平和館というものもありますし、色々区としても取り組みを行っているんですけれども、そのことについて最後に一言お願いできますでしょうか。
  • 保阪氏:これは大変貴重な仕事なんですよ。私達は戦争を語り継がなきゃいけないけれども、ただ語り継ぐというのではなくて、証言と史料、それが相まって戦争というのはきちんと語られていくんですね。私は、証言は父親、史料は母親、そして教訓、知恵という子どもを産むんだというふうに常に言っているんですが。ですから世田谷に住んでいて証言される方は少なくなっているけれども、そういう人達がやっぱり父親で、これは母親の役を果たすんです。そしてここから戦争はやっちゃいけないんだという教訓が生まれてくるんだと思います。こういう教訓をきちんと語り継ぐっていうのは行政の本当に大事な役目だと思いますし、世田谷はそれに一歩進んで取り組んでいるという事に対して、僕は敬意を表しますよ。

まとめ

  • パーソナリティ:ありがとうございます。区長、最後にお願いします。
  • 区長:はい、激励のお言葉頂きました。先日のシンポジウムでもですね、大変熱心に保阪正康先生のお話、講演と議論を多くの区民の方が聞いて頂きました。大変印象的だったのは、戦争というものが持つ残酷さ、そして一言で言って平常時の常識が正反対になると。人間はかくも残酷になれるのか、というくらいの証言をずっと聞かれてきたお話もありました。何より戦争で何人亡くなったのかということすら、はっきりしないんだそうです。一番基本的、基礎的な事なんですが、それすらきちんと記録をされていないし、大体記録そのものがみんな燃やされてしまったという中で、保阪先生が研究者としてジャーナリストとして、ひとつひとつ事実を確かめながら4千人もの旧軍人の話を聞いたと。そこから見えてきたものというのは、ぜひこのシンポジウムに参加できなかった方、一応YouTubeでもこれから流していく予定ではありますけれども、次回是非しっかりとそのあたりを伺っていきたいなと思います。
  • パーソナリティ:はい。今日は戦後80年平和を伝えていく、前編ということでお話を伺ってまいりました。また来月もぜひよろしくお願いいたします。保坂区長、そして保阪先生、どうもありがとうございました。
  • 保阪氏・区長:ありがとうございました。

談話室8-9月

写真:左から、保阪氏、パーソナリティ、保坂区長

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ファクシミリ:03-5432-3001