玉川全円耕地整理

最終更新日 令和3年1月12日

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玉川全円耕地整理組合等々力南区の設計図
玉川全円耕地整理組合等々力南区の設計図

玉川全円耕地整理というのは、大正末期に計画された玉川地域の耕地整理事業で、簡単にいいますと、将来玉川村も住宅の町になると見越した宅地造成工事のことです。現在の世田谷区の約4分の1(1,000町歩)を占める玉川村全域を対象としたものであり、わが国の都市計画史上でも特筆に価する事業です。

大正12年、関東大震災で東京の下町は焼け野原となり、人々は郊外に住まいを求めていました。大田区の田園調布(当時の調布村)では、住宅地の造成が進められ、文化住宅が立ち並び、田園都市が出現していきました。

隣の玉川村でも盛んに土地が売買されましたが、宅地造成がされていないので、安値で買いたたかれていました。この状況を憂いた玉川村の村長「豊田正治」をはじめ地元の有志たちは、何とかして村の将来のために土地を守り、道路や下水道を造って、住みやすくしようと考えました。大正12年1月、村会で村全域の耕地整理を全会一致で決定しました。当時、玉川村は1,300戸、人口7,000人の村でした。その後、昭和2年に玉川全円耕地整理組合が結成され、村長の豊田氏自らが組合長となって、この大事業を始めました。

耕地整理は、組合が土地を買い上げ、整地後、所有者に売り渡すという方法で行われました。当然ながら反対派も多く、その運動は殺気だった中で進められたといいます。

賛成、反対の声が渦巻く中で、昭和3年6月1日に事業が着工され、諏訪分区(東玉川)、尾山分区(尾山台)、奥沢西分区などの分区がまずは工事に着工しました。工事は途中、第2次世界大戦で中断されたり、資金難に陥って、村長以下役員などは自分の資財を投じたり、大井町線の敷設を促進したり、用賀地区の土地を帝国競馬協会(現日本中央競馬会)に売買交渉したりして切りぬけ、昭和29年用賀中区の耕地整理登記を終えて、全面積1,100ヘクタール、30年に及んだ耕地整理は完了しました。

参考 「改訂 せたがやの散歩道一歩二歩散歩」(平成7年3月30日、世田谷区区長室広報課発行)、「せたがやゆかりの人」(昭和63年3月16日、世田谷区区長室広報課発行)

(補足)「玉川全円耕地整理組合等々力南区の設計図」は区立郷土資料館所蔵のものです。

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