玉川遊園地

最終更新日 令和3年1月12日

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玉川遊園地は、玉川電車の乗客誘致のため、明治42年に玉川神社の下、現在の身延山関東別院と住宅のある一帯を地主から借り受けて設立されました。

自然を基調とした庭園で、滝、蓮池、小川、藤棚などを配し、ブランコやすべり台、遊底円木などの遊具を備えていました。また、猿や孔雀、鹿などの動物も飼育しました。開園後しばらくは浅草の「花屋敷」に業務委託し、大正11年頃直営化しました。

遊園地の奥には、玉川閣と呼ばれる、崖(国分寺崖線)の落差を利用して建てられた建物がありました。大正博覧会で不要になった京都の清水寺の模造建築物を移築したものです。本物に比べて、細かかったといわれる真っ赤な柱と欄干が特徴で、中は舞台付の百畳敷となっていました。ここで芝居、浪曲などの演芸がかかりました。木戸銭は10銭~15銭程度でした。

玉川閣からは、青々とした中耕地の田んぼ、多摩川の流れ、低い多摩丘陵、箱根~丹沢山塊から秩父連山、正面には富士山が眺められました。園内の斜面には、ツツジが植え込まれ、花期になると真っ赤なじゅうたんを敷きつめたようでした。料金は開園当初は有料でしたが、2年~3年で無料になりました。

山坂をかけめぐったり、各種遊具で遊んだり、滝や池、小川での水遊びなど地元の子どもたちの絶好の遊び場となりました。また、春・秋の日曜日には、グラウンドで民間会社の運動会が開かれ、朝から花火が上がりました。屋台が出て、音楽隊が「天然の美」などのしらべを奏でたといいます。

交通は、瀬田と玉川の間に「遊園地前」という停留場があり、遊園地までは徒歩で5分ほどでした。慈眼寺の前から遊園地の下までは桜並木で、花見客でにぎわいました。

身延山は、昭和6年が、日蓮上人入滅の650年にあたるため昭和7年に建てられました。別院建立による乗客増を見込んで、玉川電気鉄道は、日蓮宗本山に借地を無料で提供し、240坪の別院が突貫工事で建てられました。「遊園地前」の停留所は「身延山関東別院」と改称されました。遊園地と別院は共存の形となり、御会式には万燈がたくさん集まってにぎやかでした。

その後、戦争が始まって、運動会・行楽客が減少し、だんだん寂れていきました。戦時中は、遊園地・玉川閣は取り壊され、昭和19年、玉川神社の台地に大規模な防空壕が掘られ、その土で蓮池、油壺なども埋め立てられました。

戦後、東京急行電鉄が土地を地主に返還しました。昭和24年には、都営住宅が建てられました。

参考 「特別展 玉電 玉川電気鉄道と世田谷のあゆみ」(平成元年12月13日 発行世田谷区立郷土資料館)

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