玉川温室村

最終更新日 令和5年1月31日

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等々力では、耕地整理が進む一方で、新しい農業も始まっていました。宅地化の準備はしても、整理の済んだ碁盤目の田畑では農作が続きました。

新しい農業とは温室栽培で、大正14年に現在の東京都世田谷区等々力1丁目で、アメリカ帰りの農園主が始めたのが最初でした。当初の頃の温室経営者は他県の出身者が大部分で、等々力の人々は「おかしな農業をやっているな」と見ているだけだったのですが、経営の成功を見て手がける人が瞬く間に増えたということです。

昭和5年から昭和15年ぐらいまでの間に、経営面積は計42,000平方メートルにも及びました。農村にビニールハウスの多い昨今ならともかく、当時はいかにも新鮮で、東京府下らしい農村風景だったことでしょう。

これが「玉川温室村」として知られるようになると、バスを連ねて見学者が来たり、全国から研究生が集まったものでした。研究生たちは各農家に3人~4人ずつ園丁(えんてい)として住みこんで栽培技術と経営方法を学んでは、それぞれの故郷の村に温室を建てました。

玉川温室村で栽培していたのは、カーネーション、スイートピー、シクラメンといった洋花、メロンやイチゴといった高級果実でした。当時はカーネーション1本が7銭ないし8銭(卸値)だったということです。ゴールデンバットというタバコが1箱6銭だった時代です。

今は2軒~3軒となり、温室村と呼ばれることも少なくなりましたが、多摩堤通りにあるバス停には「玉川温室村」の名を見ることができます。

参考 「世田谷、町村のおいたち」(昭和57年10月1日、世田谷区区長室広報課発行)、「世田谷の歴史と文化」(平成17年3月31日、世田谷区立郷土資料館発行)

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