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最終更新日 2015年4月1日
ページID 10232
「世田谷」の「世田」は「瀬田」に通じ、「瀬戸」の「戸」が訛ったものではないかということです。「瀬戸」若しくは「瀬門」というのは、多くの場合「狭小な海峡」と解されていますが、地名の場合には必ずしもそうではなく、内陸部にも「瀬戸」なる地名を多くみかけます。そのことから、「瀬戸」が訛って「瀬田」となり、「瀬田、勢田、勢多」という郷名となり、時の経過と共に「瀬田」の言葉がわからないまま勢田郷の一部で特に谷の多い所という区別をして「せたかい」と呼び、以後「狭(かい)」が同義語の「谷」に変り、発音も「せたがや」と変って「世田谷」若しくは「世田ヶ谷」と書くようになったと思われます。即ち、「世田谷」は勢田郷の谷地ということです。
桜については、旧世田谷4丁目の区域で、字名では桜木、満中在家、横根、供養塚、細谷戸、勝光院下の一部、上町の一部から成っている。桜木という字名は明治8年、9年につけられたもので、区域の全体は旧勝光院領30石の地で、勝光院は吉良氏の菩提寺であり、世田谷城内にあったという御所桜という由緒ある桜にちなんだものと思われる。因に勝光院の墓地や参道には樹齢からみて、明治中期以後に植えたと思われる染井吉野が多数ある。桜という町名は旧勝光院領30石の区域を桜木といったことにもあるが、分校した桜丘小学校にちなんで桜丘なる町名がつけられるに際し、母体の桜小学校の名をも町名にというかねあいが脳裡にあったことは否めないところである。
弦巻という名については、いくつかの説がある。
第一の説として弦巻は昔、牧場だったという説です。「つる」は古代朝鮮語の「昿野」に通じる野原のことで、「まき」は「馬城」で牧場を表すといい、武蔵野の台地がかつては農耕よりも牧畜に適していて、子の地の馬の算出が関東に武士団を誕生させる大きな力になったともいわれる由来に基づいている。
第二の説は武士たちが降伏したところだったとする説である。これは、「この地で武士が戦に破れ、降伏し弓の弦を巻いて、恭順の意を表した」ので弦巻といわれるようになったというものである。この説についてはさらに遡れば日本武尊が関東から東北にかけての国々を征伐に出た時、この地で弦を巻いたとも、また源義家が奥州征伐のとき、ここで弦を弓からはずしたとも言われることなどによるものである。
さらに第三の説は、「つるまき」を「水流巻」と書き、「水の流れが渦を巻くほどはげしい」ところだという意味をとるものである。世田谷は全体として海抜40~50メートルくらいの台地に位置し、古くは未開発の自然林が多く、この山林がかなりの保水力を持ち湧水となって、蛇崩川をはじめ多くの区内の川の水源となったと思われる。蛇崩川は、普段は水量の少ない川ですが、雨が降り続けば川の水は溢れ、その近辺に水が渦巻く状態ができたとも考えられる。これを語源として水流巻(弦巻)から弦巻になったという説である。
参考「ふるさと世田谷を語る 世田谷・桜・桜丘・弦巻」(世田谷区、平成11年3月)、「出張所のあらまし」
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