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最終更新日 2024年4月15日
ページID 10230
東京都世田谷区弦巻2丁目41番5号
(注意)この施設は東京都水道局浄水部浄水課(電話番号03-5320-6413)が管理しています。
明治末期から大正初期にかけての東京市(当時)周辺は、人口の増加につれて安全な飲料水の確保が必要となり、上水道布設事業が相次ぎました。特に人口増加の著しい豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)では早くから具体化が進み、東京市の水道事業推進の重鎮であった東京帝国大学の中島鋭治博士に依頼して、町営上水道布設の計画に着手、大正6年には実地調整を基に、取水地に多摩川河畔の砧村(現鎌田)を、中継の給水所に駒沢を選び、計画を取りまとめて認可を申請、大正9年に内務大臣、大正10年には大蔵大臣の認可を得、ここに世田谷を横断する大規模な水道工事が、国家事業並みの扱いで大正10年5月に着工となりました。
中島博士の計画は、砧村に浄水所を設けて清潔な水を作り、送水ポンプの力で駒沢給水所に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水するという斬新な仕組みでした。工事は順調に進み関東大震災を挟んで大正13年3月に全工事が完了しました。
そして、給水所の中に西欧の中世風の趣きを持ち、独特な意匠を施した2基の巨大塔が姿を現しました。高さ30メートルの塔屋には王冠を連想させる装飾電球が付けられ、軽やかな特徴あるトラス橋で両塔が結ばれているこの独特な設計は二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の卓越した土木建築デザイン感覚によるものであります。かつて、江戸川乱歩が怪人二十面相のアジトのモデルにしたというのもうなずけます。同時期砧浄水所(現鎌田)には、緩速ろ過池の横、青い西洋瓦葺き屋根の上に、愛らしい四角錐の小塔を載せたユニークな送水ポンプ室が竣工しています。なお昭和2年、ここ給水所には渋谷町上水道布設記念碑も造られました。
その後、関東大震災後の渋谷町の人口急増により、昭和6~昭和7年にかけて取水場所の作り変えや、ろ過池の増設など大規模な拡張工事が行われました。その際砧の浄水所には取水ポンプ室、駒沢の給水所には送水ポンプ室が新たに建造されましたが、いずれも優れたデザイン性に富み、昭和の名建造物といわれています。昭和7年10月、周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い、渋谷町水道も東京市水道局に移管されて、その名は消えました。
戦後、東京都の水道局となってから、水道技術革新により浄水所は高度浄水施設への転換と給水所の地下埋設大型化が進み、大正・昭和初期の水道の姿を留めるものが極めて少なくなりつつある現在、数少ない例外とも言えるのが、駒沢給水塔を頂点とした多摩川河畔と駒沢の渋谷町水道遺産の数々ではないでしょうか。豊かな緑の樹林の中に聳え立つ双塔の偉容は、人々に近代水道文明の歴史を語りかけているよう思えてなりません。
平成14年、都水道局は老朽化の激しい布設記念碑の大掛かりな補修作業と併せ、塔屋の装飾球の復元やトラス橋の全面塗装替えでイメージを一新しました。殊に塔屋の夜間点灯は、復元後今日まで、世田谷区民に貴重な近代化遺産をアピールする恰好の風物詩となっています。平成24年度には、土木学会選奨土木遺産として、駒沢給水所(配水塔・配水ポンプ所)が都内で唯一認定されました。
また、水道の歴史的遺産として、地域の風景と共に給水塔を残していくために「駒沢給水塔風景資産保存会」、通称「コマQ」が平成14年から活動しています。
写真は駒沢給水塔風景資産保存会から提供
世田谷総合支所 地域振興課
電話番号:03-5432-2818
ファクシミリ:03-5432-3031
なお、この施設は東京都水道局浄水部浄水課(03-5320-6413)が管理しています。