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最終更新日 2023年11月29日
ページID 3671
まちなかで、このような石の柱を見たことはありませんか?
これは「石標(せきひょう)」と呼ばれ、まち歩きや名所をめぐる時に役立ちます。
石標は1984年に発足された玉川地域活動団体協議会により、まちゆく人に歴史や文化を知ってもらい、人と地域のつながりを広げることを目的に、名所・旧跡の目印として玉川地域に建てられたものです。
現在では「玉川」石標保存会と名前をかえて、石標・てくたくぶっくの活動をしています。
石標(せきひょう)
玉川地域の史跡や旧跡に建てられています。
いざまち探訪をしてみようと思い立ったとき、「そもそもどんなところがあるんだろうか?どこにあるんだろうか?」と疑問が湧いてくることでしょう。
そのようなときに強い味方となるのが、「てくたくぶっく」です。
このてくたくぶっくには、その名所・旧跡の場所に加えて、場所にまつわるエピソードや歴史についても詳しく書かれています。
てくたくぶっくを片手にまち歩きをすれば、ウォーキングだけでなく、まちの歴史についても学ぶことができ、まちへの愛着もより深まるでしょう。
石標にはそれぞれの名所・旧跡の名称が彫り込んであります。
てくたくぶっくのメモ欄を彫り込みに当てて、えんぴつなどでこすると拓本(たくほん)をとることができます。
実は「てくたく」とは、「てくてく散歩して、拓本(たくほん)をとる」ことから、
「てく」と「たく」をあわせて「てくたくぶっく」となりました。
様々なペンを使用して、自分だけの本をカスタマイズしてみてはいかがですか?
てくたくぶっくは次の5種類のコースがあります。(各200円)
玉川総合支所地域振興課地域振興・防災で取り扱っております。コースによっては、他の場所でも取り扱いがありますので、下記お問い合わせ先にご連絡ください。
なお、下記の石標は、てくたくぶっくに記載はございますが、設置場所の住宅等の改築工事等で撤去されたものや一時的に撤去されているもの、周辺の工事等で立ち入ることができないものがございます。石標をめぐる際には、ご注意いただきながらお楽しみください。
今から600年前、新田義貞(にったよしさだ)の子義興(よしおき)が従者13名を連れて鎌倉に向かう途中、府中に近い矢野口(やのくち)の渡しで、江戸、竹沢(たけざわ)の両武将にはかられ、川の真中(まんなか)で舟の栓を抜かれ、両岸からの攻撃で主従(しゅじゅう)は憤死(ふんし)しました。その家来の由良兵庫助(ゆらひょうごのすけ)の死体の一部がこの島に流れついたので「兵庫島」という名がついたとされています(諸説あり)。島は野川と多摩川にはさまれています。
5世紀頃南関東で大きな勢力を持った豪族のお墓です。形は帆立貝型の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、最近の調査で同じ型では、日本で三番目の規模のものと分かりました。明治30年ごろ最初に発掘調査が行われ、その時、人骨、石棺、副葬品など多数が出土しました。これらは現在、東京国立博物館に収蔵されています。発掘のあとに祟りを鎮めるため頂上に吾妻神社が建てられ、日露戦争当時は弾よけの神とあがめられ、吾妻大明神の幟(のぼり)も立ち、数件の茶店も出る盛況をみました。天保年間の新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふうどきこう)にあるように、頂上からは富士山はもとより、品川沖、安房(あわ)、上総(かずさ)まで眺められる絶景の地とあります。現在、吾妻大明神は、郷土を守る「守護神」として野毛の善養寺に祀られています。
浄真寺をふつう九品仏(くほんぶつ)といっています。この寺の名前は正式には「九品仏山唯在念仏院浄真寺(くほんぶつざんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)」です。西向きの本堂の正面の三仏堂に九躰(きゅうたい)の阿弥陀如来の像があるところから、九品仏といわれるようになりました。このお寺では4年に一度5月5日に「おめんかぶり」と言われている「来迎会(らいごうえ)」という行事があります。当日は三仏堂から本堂に懸橋がかかり、その橋を菩薩の面をかぶって行道する厳粛な儀式が行われます。
明治41年に掻上(かきあ)げの城(兎々城)跡近くに府立(都立)園芸高校(えんげいこうこう)が造られました。この学校は都内でも珍しい広い敷地に豊かな自然環境を残し、鑑賞植物や果樹などの園芸の分野の教育を行っています。キクやナシの栽培でも知られています。
この地は北条氏(ほうじょうし)の家臣・南条重長(なんじょうしげなが)が、下総国府台(しもうさこくふだい)で北条氏康(ほうじょううじやす)と里見義弘(さとみよしひろ)が戦った時の功労により賜り、深沢西の境に空堀(からほり)を掘って土を掻上げ土塁(どるい)として城を造りました。天正(てんしょう)18年(1590)に北条氏が滅亡すると、そのまま村にひきこもり城を壊して、姓を小谷岡(こたにおか)から谷岡(たにおか)として帰農(きのう)し、身近な薬を工夫して村のためにつくしたと言われています。
なお、現在の等々力の地名の由来はこの兎々城から発祥したという説もあります。
このお寺は、用賀の観音さまという名前で呼ばれる事もありますが、今から約400年前、光蓮社明誉寿広和尚(こうれんしゃめいよじゅこうおしょう)が開山したお寺です。ご本尊は阿弥陀さまで、本堂脇の観音堂には木彫りの十一面観音世音菩薩(じゅういちめんかんのんぜのんぼさつ)が安置されています。この観音さまは用賀の住人高橋六右衛門(じゅうにんたかはしろくうえもん)の尉直住(じょうなおずみ)という人が、漁師の網にあげられたものを持ち帰ったところ、夢で観音さまからのお告げにより、このお寺に納めたとのいい伝えが残っており、用賀村の人達はもとより、遠く阿佐ヶ谷(あさがや)、高円寺(こうえんじ)、調布(ちょうふ)の方の人々からも信仰されていたとの事です。
お寺の境内(けいだい)には木が多く、本堂前(ほんどうまえ)の大銀杏(おおいちょう)は樹齢(じゅれい)百年を超え、遠くから眺める事が出来ます。そして、このお寺の風景は、昭和59年選定の世田谷百景の一つに選ばれています。
健康づくりのウォーキングに活用するもよし、家族やグループでわいわいとお散歩していくのもよし、学校の自由研究の材料として活用するのもよし、思い思いに自由なまち歩きを楽しみましょう。
今までに気づかなかった、知らなかったまちの魅力を発見できるかもしれません。
石標・てくたくぶっくは「玉川」石標保存会の活動です。
名所・旧跡を巡ることで、地域の歴史や文化を学ぶことができ、また家族で、グループでまち歩きをすることで、玉川地域のつながりを深め、地域全体の発展に寄与しています。
区では、この活動を支援しています。
玉川総合支所 地域振興課
電話番号:03-3702-1603
ファクシミリ:03-3702-0942