砧地域の地名の由来

最終更新日 平成24年8月23日

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砧地域の地名の由来(『ふるさと世田谷を語る』から抜粋)

祖師谷

祖師ヶ谷という地名の起こりは、一つには村の谷の近くに地福寺というお寺があってその境内に祖師堂があったためという説があります。また一方の説では、鎌倉時代初期にこの地に住んでいた豪族の粕谷氏が、弘安年間に法華宗の開祖日蓮上人の布教によってその教えに帰依する人々が多い中で、法華宗を深く崇敬し、領内に一堂守を建立(祖師山院就沢寺(後焼失)と命名)し、日蓮上人他界後に祖師像を彫刻し、安置したことによるとされています。

千歳台

千歳台という地名は、昭和46年環状八号道路の貫通などによる地域の変更で誕生しました。それ以前は烏山南部、粕谷、八幡山などとともに「廻沢」という広い地域でした。
廻沢村は、昔は施沢、巡沢とも書き、このめぐり沢の名は地形から付けられたものとされ、村の東に位置する東覚院の本尊薬師如来像は、この地が水清らかな舟形の霊地であるから安置されたといういわれがあります。
これを裏づけるのは、かつて東覚院の西北の窪地は雨が降ると水が溜まる沢地で、そのためにこの水を烏山川へ落としていて、いわゆる水めぐる沢だったのではないかといわれています。
《参考》 「千歳」の由来(三田義春編『世田谷の地名 下』より抜粋)
旧千歳村は、明治22年5月1日市制及び町村制が施行されたとき、旧上祖師ヶ谷村、旧下祖師ヶ谷村、旧廻沢村、旧船橋村、旧八幡山村、旧粕谷村、旧給田村、旧烏山村の8ヶ村が合併して成立したものである。「千歳」という村名は、候補村名12のうちから投票により決定したというもので古くから土地に密着した由来等はなく単に縁起のよい名称というに過ぎないものである。

船橋

船橋という名の由来については、いくつかの説があります。その一つは、昔多摩川の蛇行する川岸に集落があって、多摩川を住民が渡るために船橋を架けたことから名がついたと言われるものです。この船橋というのは、船や材木など水に浮くものを水面に並べてつなぎ、その上に板を渡した浮き橋のこと、または両岸から綱を張ってその綱を伝わって動かす筏(いかだ)のことでした。
また別の考え方では、ずっと昔には烏山川を含む周辺一帯に幅200メートル、長さ1800メートルくらいの大きな池があったのではないかとされ、そこに船橋が架けられていたと見る説です。そしてその橋の位置は今の希望丘橋のあたりで、この船橋を通る道は、古い鎌倉街道の一つだったであろうといわれています。この幻の船橋の池と考えられるところは、かつての水田地帯だった場所で、長い間に池は徐々に湿地帯となって水田に利用されたのではないかといわれています。
またもう一節は、佐野景綱という豪族の子の船橋春綱という人が下野の国に住んでいて、その子孫にあたる船橋吉綱の一族が移り住んだので船橋と呼ぶようになったというのですが、それ以上のことは何もわかってはいません。

喜多見・成城

木田見(後に北見、喜多見となる)の地名が歴史上に見られるのは、文永11年(1274)の古文書ですが、江戸氏の一族木田見氏が、すでに世田谷のこの地方を分領して居を構えていたとされています。
その後、この所領をめぐっては木田見氏と熊谷氏(今の熊谷市一帯の領主)との間で長年にわたっていざこざが続きましたが、応永年間初期(1400年ころ)までに木田見郷は木田見氏が全部領有することで決着したと言われています。
この木田見氏は初め江戸氏とも名乗っていましたが、のち徳川家康が江戸に入場するに及んで名を木田見、北見、そして喜多見に変えたということです。
大正12年9月1日の関東大震災の後は市街地からの移入が始まり、また同14年には牛込(現在の新宿区)の成城学校から分離した成城学園が、砧村大字喜多見字東之原に造られることになり、この地は開けていくことになったのでした。
小田急が開通し、その後村名と学園名から、小田急線以北を喜多見成城北、以南を喜多見成城南と呼ぶようになりました。
昭和11年10月には砧村と千歳村は東京市に編入されて、世田谷区に属することになったのでした。これによって大字喜多見は喜多見町に、喜多見成城北と南は合併して成城町に改められました。

宇奈根

宇奈根という地名については、『武蔵名勝図会』という書物には、「上古の世には海比(うない)と号せしにや。万葉の古詠などにもありけり。それより唱えを転じてウナニともいいけるや。上古には溝渠をウナニと唱へける由」云々とあります。この溝渠はどぶではなく用水路だろうとされ、平陸の地で昔から農業(陸稲)がさかんだったと思われることからウナニが多くあり、これが転じてウナネになったとする説、宇奈根神(宇迦売神なら稲の神様)という穀物の神様説、畦目(うなめ)、畝目(うねめ)からつけられたとする説など、さまざまです。

鎌田

鎌田は古い時代のことはよくわかりません。
この村が他村と大きく変わっていることは、広大な大蔵村の中に点在する大小十八の飛地のような存在だったことです。
鎌田が現在のような区画になったのは、昭和30年1月の飛地整理のときでした。
本村(現在の鎌田4丁目)の橋本家については、古く12世紀にさかのぼって、源義朝の郎党の一人に鎌田政清という人がいて、平治の乱に敗れた後に落武者として身を隠したとされます。その末裔が橋本家だと言い伝えられていますが、その後この地には石井家、小池家、金子家も住むようになりました。

岡本

地名の岡本は、長円寺の山号の岡本山(こうほんざん)からとって「おかもと」にしたとする説、鎌倉時代の武将木曽義仲に属していた岡本次郎成勝の出身地であることから付けられたとする説、丘陵起伏の多い地であることから、岡本とつけられたとする説などがあります。

大蔵

大蔵村の地名の由来ですが、延暦7年(788年)に石川朝臣豊人(いしかわのあそんとよひと)という人が武蔵守となり、さらに大蔵卿となったことから、このあたりを大蔵村というようになったとも伝えられています。
仁治元年(1240)年には、石井石見守兼周(いしいいわみのかみかねちか)やその子左衛門尉兼章が幕府から武州石井(いわいの)郷(大蔵村)を賜って移り住むようになりました。また、応永年間(1394~1428年)に足利氏満が鎌倉大蔵ヶ谷(おおくらがやつ)に永安寺を建立しましたが、のち勢力争いの中で廃れてしまったのを、遺臣たちがこの大蔵村に再建した史実が村の名の起こりという説もあります。

古く7、8世紀のころ、朝廷に納める布を衣板(きぬいた)でたたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれたといわれています。女の人の夜なべ仕事として砧の音が響いたことや、その布を染め、多摩川の清流にさらして洗ったことなどは詩情にもうたわれてきました。

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