用賀から(じげんじ)から(行善寺)から二子玉川 37 大空閣寺(瀬田4-21-15) 大空閣寺は玉川八十八番札所の中、三十八番札所になっています。境内には古い観世音菩薩が祀られ、入り口には昭和5年建立の両石柱に地蔵菩薩、虚空蔵菩薩と刻まれています。 38 じげんじ(瀬田4-10-3) 開基は徳治元年(1306年)に ごんのだいそうず法印じょうおんによるものとされ、この村で最も古いお寺です。たちばな郡小杉村最明寺の末寺で喜楽山教令院という新義真言宗に属します。初めは修験の地でこの崖下にありましたが、のちに今の場所に移して じげんじと名づけられました。 39 笠付庚申塔(瀬田4-11) この庚申塔は、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿の上にみつ目、腕6本のしょうめん金綱が刻まれている典型的な江戸中期のもので、元禄10年(1697年)2月20日造と刻まれています。 40 瀬田玉川神社(瀬田4-11-31) 明治41年に改称するまでは御嶽神社でした。 大山の夏山開きの7月27日には瀬田玉川神社の境内に大山灯篭を立てていました。木製の灯篭の火袋には「五穀豊穣・家内安全」と書かれた障子紙の戸がはめられました。日照が続き雨乞いの時は、村人がここに集まり、代表が多摩川で身を清め、大山のお水をいただき、途中休むとそこに雨が降るというので一気にここまで運びました。神社に納めると、畑の四隅にまいて慈雨を祈りました。 41 身延山関東別院(ぎょくせんじ)(瀬田4-12-4) 昭和7年に建てられました。昭和6年が日蓮上人の入滅650年にあたり、これを記念して本山で別院を作る予定だったところ、当時砂利運搬が多かった玉川電気鉄道が人を呼び込むために地主の方に相談して借地を無料で提供してもらい、建立の運びとなりました。駅名も「遊園地前」から「身延山関東別院前」と変更されました。 42 両親閣東京別院(瀬田4-13-4) 両親閣東京別院は、日蓮聖人の両親の廟所のある小湊妙蓮寺両親閣の東京別院として昭和6年に建立され、昭和25年に敬親玉川教会(別称両親閣東京別院)と改称しました。 43 玉電砧線中耕地駅跡(玉川3-20) 東急玉川線の支線だった砧線は、大正13年3月1日に開通しました。当時は玉川電気鉄道といい、玉川から砧までの単線で、途中、中耕地、吉沢、大蔵の3駅があり、2.1キロの行程でした。開通当時は川砂利運搬用でしたが、乗客用になってからは釣り人の利用も多かったようです。昭和44年に廃止されました。 44 諏訪神社(玉川3-26-5) 文明年間(1469年から1486年)に建てられたと伝えられ、大水によって川上から流れてきた像を拾い上げて祀ったのがはじまりとされています。かつては大きなケヤキの林があり、多摩川を往来する川舟や筏の目標とされていました。 45 行善寺(瀬田1-12-23) 永禄年間(1558年から1569年)に北条氏直臣の長崎伊予守重光父子がこの地に移住した際に、小田原の菩提寺道栄寺を今のところに移し、重光の法号行善をとって行善寺と名づけました。宗派は浄土宗です。高台にある境内からの眺望は素晴らしく、江戸時代、徳川家斉や家慶も立ち寄っています。また、行善寺八景として版画にも描かれています。 46 行善寺坂・あんか坂(瀬田1-12・瀬田1-9) 行善寺坂は勾配が急で、この坂を登ると身体が温かくなることから あんか坂とも呼ばれています。坂は三度も削ったので行善寺の山門は三段の土台の上に建っていました。 47 法徳寺(瀬田1-7-7) 今から400年余り前、永禄時代に源蓮社宗誉上人が開山、足利氏家臣白井五良左衛門法徳によって開基されたと伝えられています。浄土宗で正式の名は福来山じゅこう院法徳寺。ご本尊は阿弥陀如来です。境内には、嘉永6年(1853年)に開かれ、門弟300人を超えたと云う寺子屋『芝光堂』の師、大塚貞三郎を称える筆塚や、当時の墓所に眠る歌手江里チエミの追慕像が建っています。 48 じだゆうぼり脇の道標(庚申塔)(玉川2-14) 江戸時代の初め、慶長年間に幕府の命令で代官小泉じだゆうが計画を進めた農業用水のひとつに六郷用水があります。じだゆうぼりとも呼ばれ、今は丸子川と命名されています。その脇にある道標は、庚申信仰が盛んだった頃に建立されたもので、瀬田村の庚申供養講中が安永6年(1777年)に建てました。この庚申塔は道しるべを兼ね、『みなみ大山みち、左 西 あかさかみち、右 東 目黒みち』と刻んであります。 49 二子の渡し跡(玉川1-7) 寛文9年(1669年)に溝口と二子の宿が定められ、同年やぐらざわ往還の つぎたてむらに指定された二子村が渡しを請負っていました。天明7年(1778年)、瀬田村にも渡し舟の許可が下りて、川の流れの関係から、瀬田村側の岸には二ヶ所の発着所が出来ました。大正14年(1925年)、二子橋が完成し、二子の渡しはその役目を終えました。 50 兵庫島(玉川3-2) 正平13年(1358年)、新田義貞の子、義興が従者13人を連れて鎌倉に向かう途中、稲城矢口の渡しで江戸遠江守と竹沢右京亮に謀られ、川の真ん中で舟底の栓を抜かれ、両岸からの攻撃を受けて自害しました。従者の一人、由良兵庫助の首が流れ着いたことから「兵庫島」という名がついたと伝えられています。 出展「特別展 大山みちと大山信仰」 「世田谷の古道」 「世田谷の大山みち」 「用賀(世田谷区民俗調査第9次報告)」 「玉電 田園都市世田谷の郊外電車」(世田谷区教育委員会) 「ふるさと世田谷を語る」(世田谷区) 「せたがやふるさとめぐり てくたくぶっく」(旧玉川地域活動団体連絡協議会) 発行 世田谷区玉川総合支所地域振興課 電話3702−1603 制作 合同会社 橘 2011年3月