上町から旧道から用賀 24 浄光寺(世田谷1-38-20) 九品仏山往生院といい、浄土宗西応寺の末寺で、創建は文安元年(1444年)、本尊は阿弥陀如来坐像が祀られています。観音菩薩像ほか多くの所蔵品が残されているほか、境内内には寛文2年(1662年)造立の地蔵立像などが祀られ、古い由来を伝えています。 25 常在寺(弦巻1-34-17) 宝樹山常在寺といい、日蓮宗総本山久遠寺の末寺で、吉良頼康の側室・常盤御前の寄進寺といわれ、本尊は釈迦牟尼仏を祀っています。他に鬼子母神、日蓮聖人を祀っています。 常在寺近く(弦巻1-41)の小さな祠には、いぼとり地蔵がありますが、1751年に弦巻村の女性21人によって造立されたものです。 26 実相院(弦巻3-29-6) 鶴松山実相院といい、曹洞宗のお寺で、開山は古く慶長11年(1606年)5月で、ご本尊には薬師如来が祀られています。北条氏滅亡のあと、一度は世田谷城を捨て下総(千葉)に逃れた吉良氏朝が、その後、徳川家康に許され世田谷に戻って隠遁生活を送り、ここに葬られています。その後徳川家康から、御朱印寺として石高十石二斗二升を頂き、明治まで手厚く保護されてきました。実相院の界隈は世田谷百景にも選ばれています。 27 用賀口道標(弦巻5-16) 用賀方面への大山みちと登戸みちとの分岐点にあった道標。自然石の大きなもので、不動尊の種字の下に大山みちとあり、みぎ登戸みちと刻んであります。 延喜3年(1746年)に建てられたもので、原物は世田谷区立郷土資料館に移されています。 28 八幡社と大山みち旅人の像(弦巻4-32) この旅人像は昭和60年3月、世田谷区が大山みち児童遊園を開設した時に作られたものです。この場所は南にじゃくずれがわの源流が流れていた窪地で北側には八幡社が祀られていました。 往時の八幡社は明治時代の末、弦巻神社に合祀され、今はその跡地に小祠が残っています。 29 野中の地蔵(弦巻4-2) 用賀口から用賀追分を結ぶ大山みち沿いにある丸彫りの地蔵尊で、天保3年(1832年)に建てられました。 30 大山みち追分の庚申塔(用賀3-14) 江戸から相模に向かい、新・旧の大山みちはここで合流、この辺りには醤油屋、紺屋、油屋、酒屋、料理屋等が軒を並べ、用賀村の中心として賑わっていました。文政10年(1827年)この追分に道標を兼ねた庚申塔が建ち、『みぎ江戸みち、ひだり世田谷四谷みち』と刻まれていました。今、この庚申塔は世田谷区立郷土資料館の中庭に移設展示してあります。 31 用賀神社(用賀2-16-26) かつて「神明社」と呼ばれ、その創立の年代は不明ですが、明治41年に一緒に祀った八幡社は、天正年間に鎌倉の鶴岡八幡宮より分霊を迎えたといわれています。この明治41年の合祀の際には、上用賀にあった天神社も合わせて祀られました。 32 真福寺(用賀4-14-4) 真言宗智山派に属し京都にある総本山智積院の末寺です。ご本尊は金綱界大日如来、大日堂には珍しい石仏の胎蔵界大日如来が安置されています。創建は400余年前、永禄時代と推定されており、開山は宗円和尚、開基は用賀村を開いた飯田づしょです。境内には芭蕉句碑「道のべの木槿は馬にくわれけり」や宝筺印塔(願主はのちの世田谷領代官飯田吉純、1736年建立)が建っています。 33 玉電用賀駅跡(用賀4-3) 用賀駅は、明治40年4月に、玉川電気鉄道の三軒茶屋から玉川間が開通したことに伴なってできた駅で、電車の折返所があり、駅前にあった用賀梅林には、赤坂や青山方面から子どもたちが遠足にきました。 自家用車、トラックの増加により、その後衰退。「バス路線の新設」「新玉川線建設」を条件に昭和44年5月に廃止され、駅も姿を消しました。 34 無量寺(用賀4-20-1) 浄土宗鎮西派のお寺で、東京芝の西応寺の末寺です。文禄元年(1592年)に光蓮社名誉上人の開山によるものと伝えられています。ご本尊は阿弥陀如来座像です。観音堂には行基の作といわれる十一面観世音菩薩像が祀られ、観音堂の正面には、『大悲殿』と書かれた菊池容斎による扁額がかかげられています。本堂前には樹齢100年を超える大銀杏があり、境内の風景は世田谷百景のひとつに選ばれています。また、かつて、観音講が盛んであった頃、当寺の観音菩薩は各村々を巡行したとの事です。 35 田中橋(玉川台1-13) ここは下流で等々力渓谷を形成する谷沢川が流れている所で、文字通り大山みちは田んぼの中の橋を渡ったため、古くから「田中橋」と呼ばれていました。明治40年に開通した玉川電車も通行人と一緒にこの橋を渡っていました。 36 延命地蔵(玉川台2-3) 相模に向かう大山みちは、ここから二股に分かれます。右の道を行くとはじげんじ前の急坂を下り、二子の渡し場に、また、左の道を進むと行善寺、法徳寺のそばを通る少し緩やかな坂道を通って同じく二子の渡しへ。この地蔵尊はその道標を兼ね、安永6年(1777年)用賀村のおんな念仏講中により建てられたものです。