三軒茶屋から旧道から上町 13 円泉寺と八幡神社(太子堂3-30-8、太子堂5-23) 円泉寺は太子堂村の起こりとも深い関係があり、賢恵和尚のよって創設された文禄4年(1595年)以前の鎌倉時代から南北朝時代に遡って、すでに集落が作られ、聖徳太子像が安置されていたという説もあります。創設当時、境内は2250坪もの広さに及び、本堂と太子堂が立ち並ぶ荘厳なものでした。大山もうでが盛んになると、その行き帰りに円泉寺を訪れる人も多くなりましたが、安政4年(1857年)に火事で焼失し、三年後、檀家に人々により再建されました。 八幡神社は円泉寺別当職として村の西北の地に造られ、氏神様として崇拝されてきました。 14 教学院(太子堂4-15-1) 竹園山最勝寺教学院といい、慶長9年(1604年)玄応和尚の開基により江戸城内紅葉山に建てられたとされ、その後数か所を経て、明治41年に太子堂村に移転しました。 本尊にはエシンソウズの作による阿弥陀如来と、聖徳太子作といわれる聖観音像が安置され、不動堂の目青不動は東都五色不動のひとつとして知られています。 15 駒留八幡神社(上馬5-35-3) 大山みちと堀之内みちの交差する場所にあり、鎌倉時代の徳治3年(1308年)、この地方の領主だった北条左近太郎の創建といわれています。戦国時代に世田谷城主吉良頼康が、側室「常盤姫」の胎内にいた子を祀ったことから「若宮八幡」とも呼ぶようになったといわれています。 16 松陰神社(若林4-35-1) 幕末に活躍した吉田松陰の墓の東側に明治15年に社殿を建てたのが神社の始まりです。鳥居をくぐると、左手中ほどに幕末に活躍した吉田松陰の座像が、右手奥には松下村塾を模した家があり、頼三樹三郎など同士6人の墓があります。 17 勝国寺(世田谷4-27-4) 青龍山勝国寺と称す新義真言宗豊山派の寺院。開基は吉良政忠と伝えられています。吉良家の居館 世田谷城の鬼門除けとして薬師如来を祀り、吉良家代々の祈願所としたのが起こりとされ、創建時期は15世紀後半に遡る可能性があります。薬師堂の薬師如来像と日光菩提像は、世田谷区指定有形文化財です。 18 世田谷城址公園(豪徳寺2-14-1) 現在、城址公園といわれている所が吉良氏が築いた世田谷城の址です。初代治家が、南北朝のころいくさの手柄により足利氏から武蔵野国世田谷郷をもらいうけ、そこに築城したのが始まりといわれます。 当時の城のごく一部の空堀と土塁だけが残っています。 19 大吉寺(世田谷4-7-9) 開基は天正6年、号を護国山天照院と称し、浄土宗に属する寺で、川崎市小田中の泉沢寺の末寺として創建されました。 本尊に阿弥陀仏(銅像)を祀るほか、正観音菩薩、釈迦誕生仏などを祀り、明治10年の記録には、境内は500坪余の中に立派な本堂、庫裡などが建てられていて、杉の木立190本余りが森閑とした域を保っていたことがわかります。 20 円光寺(世田谷4-7-12) 天正年間(1573年から1591年)に盛尊によって開基され、元和6年(1620年)に勝国寺第二世住職によって建立された記録が残されています。 当時は朱塗りの山門、本堂、閻魔十王堂、庫裡があったとされますが、その後主要な建物は何度かの強風で倒壊し、天保年間(1830年から1843年)になって本堂が修理されました。本堂の不動尊は空海上人の作といわれています。 明治12年、村に初めて桜小学校が創立された時の仮校舎は、この円光院でした。 21 天祖神社(世田谷1-23-5) 明治26年の役所提出の記録(天祖神社明細帳)では、「明暦年間(1655年から1658年)当地氏子信徒が創建」とあります。 かつて、社殿は今の鳥居の位置にあり、社務所はその裏にあったということです。 22 世田谷代官屋敷(世田谷1-29-18) 世田谷代官屋敷は江戸時代彦根藩世田谷領の代官を代々務めた大場家の居宅で、昭和27年東京都の史跡に、昭和53年には主屋表門が国の重要文化財に指定されました。また、敷地内には昭和39年世田谷区の郷土資料館が建設され、区内の考古資料、中近世古文書、民族資料等多数が所蔵され、折々に展示されています。 23 ボロいち(世田谷1) 世田谷のボロいちは、天正6年(1578年)小田原の北条氏政が世田谷新宿に「楽いち」を許可した事が始まりで、月6回開いていたことから「六斎いち」とも呼ばれました。その後、北条氏が滅び、江戸の開府、市中の発展とともに楽市は次第にその役目を終え、年1回開かれる「歳のいち」と性格が変わりました。 代官屋敷際の大山みちには遠方から商人が荷物を持ち込み、正月を迎える前の当地方の年中行事となったようです。明治を迎え、旧暦から新暦に切り替わった際に、12月と1月の15、16日に開かれるようになりましたまた、正月用品や農具のほかにボロを売る店が多く出ることから、人々はこの市を「ボロいち」と呼ぶようになり、今に至っています。