史跡解説 池尻から新道から用賀 1 池尻稲荷神社(池尻2-34-15) この神社は京都の伏見稲荷神社から分かれて、明暦年間(江戸時代の初期)に建てられたもので、古くから「火伏せの稲荷、子育て稲荷」として村人の信仰を集めてきました。境内には「枯れずの井戸」があり、昔は赤坂から池尻村まで通行する人のための飲料水がなかったので、大山みちを旅する人々の頼りの水とされたほか、雨乞いのための大山もうでの際には、必ず立ち寄ったと言われています。 2 三軒茶屋 旧おおやまみち(代官屋敷前経由)と文化・文政期ごろに開通したとされる新おおやまみち(桜新町経由)との分かれ道のところに、三軒の茶屋がありました。田中屋、信楽(のちの石橋楼)、角屋の3軒で、三軒茶屋の地名のおこりと言われています。 おおやまもうでの旅人にも休憩地として利用されていました。 3 大山みち道標(三軒茶屋2-13) 三軒茶屋は石橋楼の角に建てられていたこの道標は、寛永2年(1749年)建立、文化9年(1812年)に再建されたとされ、正面には「ひだり相州どおり大山みち」側面には「みぎ富士世田谷・登戸道」「こちらふたこどおり」という字が刻まれています。 玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路の拡張などにより、転々と移されましたが、三軒茶屋町会結成50周年記念事業のひとつとして元の位置近くに戻されました。 4 正連寺(三軒茶屋1-10-11) 正連寺は、浄土真宗本願寺派に属し、白龍山正連寺といいます。 元禄10年(1688年)に没した竹岡長円の開山で、ご本尊は阿弥陀如来です。創建は明暦3年(1657年)現在の港区白金台付近でしたが、道路拡張工事のため明治42年に今の三軒茶屋に移築されました。 5 中里旧道 三軒茶屋の少し先、じゃくずれがわ遊歩道を跨いで弓形の旧道が残っています。世田谷区内に残る大山みちの旧道のひとつで、元じゃくずれがわの畔に「伊勢丸稲荷」があり、その隣に三軒茶屋の大山道標がありましたが、そこが駐車場になるので、郷土資料館に寄託されました。 貞享3年(1686年)の庚申塔、正保2年(1645年)の地蔵尊がひっそりと立っています。 6 宗圓寺(上馬3-6-8) 駒留八幡神社の別当寺で、曹洞宗に属し、鎌倉時代後期、北条左近太郎が開基したと伝えられています。新大山みちと堀之内みちの交差する場所にあり、江戸時代初期のものといわれるショウズカの小堂(風邪の神、せきの御婆といわれる)は信仰を集めてきました。オリンピックの際の道路拡張に伴ない、区内最古と言われる明暦4年(1658年)の三猿の庚申塔や六地蔵が境内に移されてきました。 明治5年(1872年)には就学所が開かれ、後にここで旭小学校が開校されました。 7 駒沢給水所 渋谷町営水道駒沢給水所は、大正13年に、井戸水の衛生上の不安解消や、防火用水の確保のためにつくられました。 水は鎌田2丁目地先の多摩川から取り入れ、砧のかみしも両浄水場からこの給水所を経て、目黒・玉川・渋谷方面へ送られていました。多摩川の川底に管を入れて水を取る伏流水方式や、それを加圧して塔に運ぶポンプは、当時としては斬新なものでした。現在は、震災時の応急給水施設として利用されています。 8 品川用水路跡 品川用水路は、江戸時代初期の寛文年間に、熊本藩の細川家の下屋敷の庭に水をひくために玉川上水を分水したのが始まりです。のちに品川領の農業用水に利用され、世田谷領にも分水口ができましたが、品川まで水が届かなくなることから、閉鎖されてしまいました。昭和20年代に入ると殆ど埋め立てられ、車道と姿を変えました。 9 善養院(新町2-5-12) 善養院は曹洞宗に属し、元和2年(1616年)大場豊前守が開基した旧大山道沿いにあるお寺です。万延元年(1860年)と明治7年の二回、火事で全焼しましたが、明治17年の本堂建立を機に再興を果たしました。本尊は釈迦如来で、奥には古い30余のお地蔵様も祀られています。 10 ひさとみ稲荷神社 いとみ稲荷神社 ひさとみ稲荷神社は古くから新町村の氏神様として人々に敬われてきました。旧大山みちに面した139けん(約250メートル)の長い参道には、6本の鳥居が並び、本社に至ります。境内には古木が多く、イチョウやシイ、サワラが区の保存樹木に指定されています。 大山みちの北側には稲荷様と鳥居がある いとみ稲荷神社があります。 11 サザエさん通りと長谷川町子美術館(桜新町1-30-6) マンガ「サザエさん」の作者、長谷川町子さんが桜新町に移住し、マンガの舞台となったこと、長谷川町子美術館が開館したことなどから 駅から美術館に向う道は「サザエさん通り」と名づけられました。サザエさん一家のイラストが通りを彩っています。 12 新町住宅(桜新町1丁目から深沢6丁目) 大正2年から昭和7年にかけて、日本で初めて信託会社による郊外開発のための高級住宅地が分譲され、実業家や軍人、芸術家などが住むようになりました。まちのシンボルとして桜が植えられ、桜並木が元となって「桜新町」という地名が誕生しました。