うままち 中面 馬事公苑界わいの街の変遷を4段階で記載しています。 1.農村から住宅都市へ 玉電でつながるまち 1907(明治40)年に、玉川電気鉄道、通称「玉電」が開業し、沿線では、住宅地としての開発が進みました。  現在は田園都市線等に姿を変えましたが、三軒茶屋駅〜下高井戸駅間は世田谷線と改称され、今も走り続けています。 玉川村の街並み整備 1926(大正15)年に、現在の世田谷区の約4分の1を占める玉川村全域を対象に、住環境を整えるための宅地造成工事が計画されました。賛成・反対の声が渦巻く中、1928(昭和3)年に事業が着工し、第二次世界大戦での中断や資金難などを経ながら、1954(昭和29)年に事業が完了しました。  この事業により上用賀や用賀の整った街並みがつくりだされたのです。 2.1940年 幻のオリンピック 第12回オリンピック競技大会は、初の東京開催のオリンピックとして1940 (昭和15)年に開催されるはずでした。 しかし、当時の日本は戦時中で、時局を反映して、オリンピックの開催を返上することになり、東京での初めてのオリンピック開催は幻となりました。 馬事公苑オープン 昭和初期の日本には、総合的な馬事施設がなく、皇太子殿下(今上天皇)ご誕生の奉祝記念行事の一環として、馬事施設の設置が計画されました。 そして、1940(昭和15)年9月に日本初の総合的な馬事施設として馬事公苑がオープンしました。 東京農業大学 世田谷キャンパス開設 戦火により、常盤松(現在の渋谷区)校舎が焼失し、戦後の1946(昭和21)年に、世田谷の旧陸軍機甲整備学校跡へ移転し、再建に乗り出しました。 3.1964年 東京オリンピック 1964(昭和39)年、東京で初となる第18回オリンピック競技大会が開催されました。馬事公苑は、馬術競技会場となり、2日間で2,000人を越す人々が観覧したと言われています。 馬事公苑では、このオリンピックの計画を契機に覆馬場の建設や事務所の改築が行われました。 苑内には、オリンピック開催を記念した碑が残されています。 オリンピックを契機に、東京中のまちづくりも進められました。 区内の主要道路の計画は関東大震災後の1927(昭和2)年に決められましたが、その多くが手つかずのままでした。 甲州街道と環7通りの整備、世田谷通りの改修などがオリンピックに向けて進められました。 4.2020年そして未来へ 馬事公苑は、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の馬術競技会場となることが決定しています。 大会期間中やその前後には、国内外から多くの人々が訪れることになります。 世田谷区は、この大会を最大限に盛り上げ、訪れる人々を笑顔で温かく迎え、大会後にもまちの魅力がレガシーとして残っていくよう、 馬事公苑界わいまちの魅力向上構想を策定し、魅力あるまちづくりを進めていきます。