世田谷区史編さんだより 第8号 令和6(2024)年3月 出土黒曜石の「戸籍」調査 【黒曜石はどこから来た?】  現在、原始・古代史編さん委員会では、世田谷で出土した旧石器時代と縄文時代の黒曜石(「黒耀石」とも書く)の産地の特定を専門の研究機関へ依頼し、蛍光X線分析を進めています。これは、黒曜石に含まれる微量元素(ケイ素・チタン・アルミニウム・鉄・マンガンなどの主要元素とルビジウム・ストロンジウム・イットリウム・ジルコニウムなど)を測定し、その産地を同定する、いわば黒曜石の「戸籍」を科学的に証明する作業です。 写真A 削器(左3点と右上1点)・尖頭器(右下1点)<田直遺跡1号ブロック> 黒曜石は、世田谷を含む南関東地域では採取できません。したがって数10㎞から170㎞ほど離れた産地から世田谷へ運ばれてきたことになります(「遠隔地石材」)。  南関東地域で出土する黒曜石には、(1)長野県の中部高地産(世田谷との距離130~150㎞ 以下同)、(2)伊豆箱根産(80~90㎞)、(3)伊豆神津島産(170㎞)、(4)栃木県高原山産(140㎞)、以上4か所の主要原産地があります(図)。なかでも伊豆七島の神津島は、氷河期の極相期において100m以上海水面が低下しても本土とつながらなかったため、渡海技術の存在なくして神津島産黒曜石の入手はかなわなかったと考えられます。 図 関東周辺の黒曜石産地 【産地同定のゆくえ】 世田谷区内では、これまでに上記4か所のうち栃木県の高原山を除いた3か所の産地が確認されています。そして、この一連の調査で、遺跡単位や時期によって黒曜石の産地が異なることが、徐々に明らかとなってきました。例えば、旧石器時代の遺跡である田直遺跡(大蔵五丁目)のⅣ層で、槍先形尖頭器を主にした二つのブロックが出土しましたが、全出土石器766点中764点が黒曜石で占められ、それも黒曜石全点の産地は長野県蓼科冷山1か所だったことが判りました(写真A・B)。また、下山遺跡と瀬田遺跡の同じⅥ層から出土した透明度の高い良質な黒曜石は、すべて長野県の中部高地産でしたが、それらに冷山産は含まれず、諏訪星ヶ塔や和田鷹山など産地は複数でした。さらに、縄文時代中期中葉の勝坂1~3式期に大半を占めた神津産の黒曜石が、中期後葉の加曽利E3式期では、長野県の中部高地産が主となる逆転現象も見られ、同E4式期では、その傾向がいっそう顕著になることも明らかとなりました。このことは南関東全域の傾向とも一致します。 写真B 尖頭器(左4点)・削器(右1点)<田直遺跡2号ブロック> このように黒曜石の「戸籍」調査は、その流通が時代や地域によって一様ではないことや、巨視的に捉えれば、南関東に共通した大きなムーヴメントがあったことを示す有益な情報をわれわれに提供してくれます。 鉄眼の大蔵経開版事業と井伊直孝の娘・掃雲院 世田谷区内にある曹洞宗の古刹、豪徳寺(豪徳寺2-24-7)の仏殿とそこに安置されている仏像(釈迦如来像・阿弥陀如来像・薬師如来像など)は、延宝5(1677)年に掃雲院殿無染了心大姉より寄進されたものです。 掃雲院は、彦根藩第2代藩主の井伊直孝とその側室の春光院(石井氏女)との間に生まれた娘で、俗名を亀姫といいます。彼女は非常に信心深く、仏門に帰依して、生涯独身を徹したとされています。また、世田谷城の敷地内に元々あった弘徳院を整備し直して亡き父直孝の菩提所とし、その寺号を父の法名に因んで豪徳寺に改めたと伝えられています。 掃雲院が寄進した豪徳寺の仏殿と、そこに安置されている仏像には黄檗様式が採り入れられています。黄檗様式とは、江戸時代初頭に中国から来日した隠元隆琦によって創建された黄檗山万福寺(京都府宇治市)の建造物や仏像に見られる明朝風の様式をいいます。 何故、曹洞宗の寺院である豪徳寺の仏殿や仏像に黄檗様式が採り入れられているのかというと、掃雲院と親交の深かった黄檗宗の僧である鉄眼道光の存在がその背景にあると考えられます。 鉄眼は、寛永7(1627)年、肥後国益城郡守山村(現在の熊本県宇城市)に生まれました。13歳の時に出家して浄土真宗の僧となりますが、明暦元(1655)年、当時長崎に寄留していた隠元の下に参禅して禅宗に帰依し、のちに隠元の法嗣である木庵性瑫の門に入りました。  鉄眼と掃雲院との親交がいつ頃より始まったのかについては定かでありませんが、一説には、寛文11(1671)年、掃雲院が武蔵国葛飾郡牛嶋(現在の墨田区向島)に創建した海蔵庵に、翌12年、鉄眼を迎え入れたといいます。それは豪徳寺の仏殿が建立される5年前のことになります。掃雲院は、直孝の菩提所を整備するに当たり、かねてより親交が深く、全幅の信頼を置いていた鉄眼に助力を請うたのでした。 鉄眼の業績としてまず第一に挙げられるのは、大蔵経(一切経とも呼称される)の開版(出版)です。大蔵経とは、中国における仏教聖典の総称で、経(釈迦が説いた教え)、律(教団の定めた戒律)、論(経や律についての解説や敷衍著述)の三蔵に、それらに関する注釈書を加えたものをいいます。 寛文3(1663)年、鉄眼は日本製の大蔵経の開版を思い立ちます。そして、同9年には隠元より授かった万暦版(明版)大蔵経を基に板下を作製することに決め、その資金調達のため全国各地を奔走することとなりました。それから15年後の延宝6(1678)年、遂に大蔵経の版木がほぼでき上がり、同年7月にはその初刷りが後水尾法皇に献上されています。その後も鉄眼の大蔵経開版事業は継続され、天和元(1681)年、着想から実に18年の永きを要して漸く大蔵経が完成しました。鉄眼が上梓したこれらの大蔵経は「黄檗版大蔵経」あるいは「鉄眼版大蔵経」と呼ばれ、その版木約6万枚(万福寺塔頭・宝蔵院蔵)のうち48,275枚が国の重要文化財に指定されています。  天和元年に完成した後刷りの大蔵経の各巻末に附された刊記には、初刷りには刻まれていない浄財寄進者の名前が載っています。今回、それらの刊記を調べたところ、大般若経第196と197巻の刊記に掃雲院の名前があることを確認しました。 写真 大蔵経のうち大般若経197巻刊記(大槻幹郎・松永知海共編『影印本 黄檗版大蔵経刊記集』〈思文閣出版、1994年〉より転載。) そのほかにも同藩関係者としては、彦根藩第4代藩主井伊直縄の正室である乾光院、庵原主税助、宇津木六之丞、三浦与左衛門、山下藤太夫、等々の名前が確認できました。これにより、掃雲院と鉄眼との間に築かれた絆の強さがより鮮明になったといえるのではないでしょうか。 <参考文献>/『豪徳寺文化財綜合調査報告書』(世田谷区教育委員会、1987年)/「『黄檗版大蔵経』の募縁刊記再考」(『印度學佛教學研究』第42巻第2号、1994年)大槻幹郎・松永知海共編『影印本 黄檗版大蔵経刊記集』〈思文閣出版、1994年〉 田谷の商店街・・・山下・豪徳寺 令和5(2023)年現在、区内には127 の商店街があり(世田谷区ホームページ)、地域コミュニティーの中心として、区民の生活に潤いを与えてくれています。今回はその中から山下商店街と豪徳寺商店街の歴史を紹介します。 【「商店街」の形成】 小田急線豪徳寺駅を降りると、右手(北側)に山下商店街が、左手(南側)には豪徳寺商店街が道路に沿って伸びています。この道路は「松原大山道り」と称される古道で、甲州街道と滝坂道に連絡していました。 大正14(1925)年5月1日に玉川電気鉄道下高井戸線(現在の東急世田谷線)の山下駅が開業すると、2年後の昭和2(1927)年4月1日に小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)の豪徳寺駅も開業しました。当初、豪徳寺駅の南側は、駐在所と一軒家のみで、南側は全部畑だったようです。しかし松原大山通りは、旧宮ノ坂駅、常徳院、世田谷八幡宮(宇佐神社)に続く「参道」に相当するため、開業を契機に少しずつ商店が増えはじめ、なかでも「市場」(現在の豪徳寺市場)付近は買物客で賑わっていたようです。 写真 昭和13年頃の豪徳寺駅付近。奥に見える建物が駅舎。写真の少年は山下商店前理事長の千葉宏氏。(千葉家提供) しかし、昭和16(1941)年12月の太平洋戦争開戦以降、通りの雰囲気は一変しました。宮坂方面から「轟音」とともに戦車が通過することもありました。程なく商品の仕入れも滞り、客足も減り、多くの商店が閉店を余儀なくされました。しかも同20年3月の第6次建物疎開で、山下・豪徳寺両駅周辺の商店や住宅が交通疎開空地の確保を理由に解体、その数は区内最多の103棟、130戸にのぼりました。 【商店街の現在】 戦後、経営者たちは同じ場所へ戻って商売を再開しましたが、国内の生産力は極度に低下していました。しかし昭和25(1950)年6月に朝鮮戦争が勃発すると日本経済は好転し、前年に1,615店だった世田谷区内の商店数も、同25年に3,919店、翌26年には7,729店に急増しました。 山下駅前の商店経営者たちにより、初めて「商店会」が組織されたのは、まさに昭和26年10月のことでした。「商店街」とは、商店が集まり形成された商業地域をいいますが、「商店会」とは、商店経営者たちの「相互扶助組織」で、任意の経済活動や環境整備、相互協力を目的とした団体のことをいいます。山下商店会では、道路の舗装や鉄柱の街路灯を設置して環境整備を進める一方、「福引売出し」や「8の日特売」を開催したり、「山下スタンプ会」(昭和47年)を発足させるなどの販売促進がはかられました。その結果、昭和61(1986)年3月に山下商店街振興組合の認可を得ています。 写真 昭和26年頃の山下商店街。「大売り出し」ののぼりが見える。(千葉家提供) 一方の豪徳寺商店街も、生鮮を主とした豪徳寺市場を中心に賑わいを取り戻し、分散していた商店を統合して商店会が組織されました。昭和41(1966)年には早くも「スタンプ・ポイント制度」を導入、同55年には豪徳寺商店街振興組合の認可を得ています。 写真 賑わう山下商店街の様子。昭和47年頃。(千葉家提供) しかし、急速なモータリゼーションや大型店舗の郊外進出が地域経済に与えた影響は大きく、全国の商店街は急速に活気を失っていきました。平成18(2006)年に実施された世田谷区の調査では、62%以上の区民が「日頃よく買い物する場所」の問いに対し、「大型店」と回答しています。一方で商店街の印象については、「安心して歩いて買い物ができる」「雰囲気がよい」といった回答も7割を占めており、身近な商店街ならではの良さも改めて見直されているようです。 写真 戦後の「豪徳寺大市場」。今では見かけなくなったチンドン屋の姿が見える。(昭和36年/郷土資料館所蔵)  商店街にも様々な歴史があります。変化していく商店街に今後も注目していきます。 <参考文献>『商業繁栄地区とその資料』(昭和40年)/『世田谷区商業名鑑』(平成13年)/「世田谷区内産業の現状分析調査報告書」(平成19年)/鈴木隆男「商店街とは何か-その形成の歴史と商業政策の変遷」(『企業診断ニュース』(平成27年)/ 「千葉宏文書」。 『区史研究 世田谷』第4号発刊 令和6年3月より、区政情報センターなどで販売予定です(税込価格550円)。なお区内の図書館や図書室でも閲覧できます。 【論文】  廻沢北遺跡出土の細石刃関連資料の研究  世田谷地域における高野山信仰の展開 【研究ノート】   高野山櫻池院供養帳の世界 【史料紹介】  「吉良源六郎先祖書」(写本) 豪徳寺文書「認可僧堂報告書」について  「世田谷区報」にみる行政広報 お知らせ  『世田谷区史』の刊行が始まります。令和6年度内に近世編、7年度内に中世編、以降令和10年度までに近代編、原始・古代編、現代編の刊行を順次予定しています。どうぞご期待ください。 聴かせてください・・・ 戦時中のお話、戦後のお話、聴かせてください。  戦争体験、学童疎開、学徒勤労動員、占領下の様子など、皆さまに直接伺って記録に残していきたいと思います。口述記録は現代史の大切な資料です。 ちょっと待って!捨てる前にご連絡を。 皆さまのお宅の押入れや物置に、古い写真やアルバム、日記、手紙、はがき、書類、レコード、戦前の新聞、家計簿、雑誌などが眠っていませんか? これらは貴重な歴史資料かもしれません。捨てられる前に、まずはご連絡ください。担当が伺います。 〒154-0016 東京都世田谷区弦巻3-16-8  世田谷区教育会館3階 区史編さん担当 TEL 03-3429-4285 FAX 03-5432-3047