第7号 令和5年(2023)3月  高野山櫻池院(ようちいん)文書調査 【写真】櫻池院玄関(櫻池院ホームページより) 櫻池院(和歌山県伊都郡)は、寺伝によると、白河天皇第四皇子の覚法法親王(かくほうほっしんのう)が開基となって創建されたといいます。 かつては「陽智院」・「養智院」の字を当てていました。 現在の「櫻池院」となったのは、後嵯峨天皇が高野山参詣の折に「桜咲 木の間もくれる 月影に 心もすめる 庭の池水」と詠まれたことに因むといわれています(「高野山通念集(こうやさんつうねんしゅう)」)。 明治21(1888)年から翌年にかけて帝国大学臨時編年史編纂掛修史局(現在の東京大学史料編纂所)が行った高野山の子院調査では、櫻池院から数十点の中世文書が発見されました。 その内に「養智院旦那注文写(ようちいんだんなちゅうもんうつし)」(天文7[1538]年6月21日)という古文書があります。 これには、「古河五ヶ村」「幸嶋四十八郷(こうじまよんじゅうはちごう)」「幸手三十三郷(さってさんじゅうさんごう)」「太田庄」「久良木(久良岐)郡(くらきぐん)」「橘(橘樹)郡(たちばなぐん)」「江原(荏原)郡(えばらぐん)」を同院の檀那場(だんなば)としていたことが記されています。 檀那場とは、高野山や伊勢神宮といった霊場に所属する子院や御師などの勢力範囲のことです。 その後も、櫻池院の調査は、文部科学省の助成事業などで引き続き実施され、それらの成果は、佐々木倫郎氏「高野山櫻池院『下総・武蔵・諸国供養帳』(その1)」(『栃木県立文書館研究紀要』17号、2013年)などに発表されています。 そして、櫻池院の所蔵史料には世田谷に関する情報も多く含まれていることがわかりました。 そこで、令和4(2022)年9月に近世史編さん委員会は、より詳細な情報を収集するため、櫻池院の史料調査を実施し、興味深い情報を得ることが出来ました。 以下では、その成果を一部紹介いたします。 【写真】院内での調査風景 櫻池院には、中世後期から近現代にかけての檀廻帳(だんかいちょう)、登山帳、供養帳が多数現存しています。 檀廻帳とは、櫻池院が檀那場としていた村々やその村に存在する檀家の戸数を記した帳面です。 主に高野聖が檀家を廻るに際して、予め廻村先を把握しておくために使用されました。 これらの帳面をめくると、現在の世田谷区域のうち、等々力村・野良田村・用賀村・瀬田村・下野毛村・上野毛村・深沢村の名前が見え、同院がこれらの村々を檀那場にしていたことがわかります。 登山帳とは、櫻池院に宿泊した者の住所、名前、宿泊した年月日を記載した帳面です。 現在でいう宿帳の類いでしょうか。 これらの登山帳には、上記村々のうち、とりわけ、等々力村・用賀村・上野毛村・下野毛村・野良田村の村民の名前が数多く見られます。 さらに、この五ヶ村の住民は、2年から5年周期というかなりの頻度で高野山へ出向いており、時には、一ヶ村で十数人連れだって登山し、同院に宿泊していたこともわかります。 また、供養帳とは、同院で執り行われた故人供養あるいは生前供養の記録です。 ここには、供養の依頼者、供養を依頼した年月日、供養者の戒名(あるいは実名)・没年月日が記されています。 これらの供養帳をめくっていったところ、天正17(1589)年4月17日に江戸勝重(えどかつしげ)(後の喜多見勝忠)の父・朝忠(ともただ)が、早世した次男忠満(ただみつ)の菩提を弔うため、供養を依頼していたことが判明しました。 当時、江戸氏は多摩郡中丸郷(なかまるごう)喜多見を本拠としていましたが、古くは中丸郷も荏原郡に属していたので、ここにも櫻池院の檀那場が在ったのではないかと推測します。 櫻池院における供養に関しては、世田谷に残る史料でも確認できる事例があります。 櫻池院の供養帳によれば、天保6(1835)年2月6日、等々力村豊田惣左衛門(とよたそうざえもん)をはじめとする八人の村民が先祖供養を依頼しています。 この供養依頼については、豊田惣左衛門が記録した『伊勢参宮日記』(『等々力村豊田家文書』)にも記載があります。 『伊勢参宮日記』の同日の記事を見ると、高野山へ登った豊田惣左衛門一行は、伊勢参宮の帰途、高野山に立ち寄っています。 奥の院の弘法大師御廟(こうぼうだいしごびょう)を参詣した後、宿泊先の櫻池院へ到着すると、まず、惣左衛門がその先祖・興原院(こうげんいん)の供養料(月牌料)金百疋(きんひゃっぴき)(一分)を支払っています。 この時、同行者七人も惣左衛門に倣って先祖の供養を依頼したものと考えられます。 彼らにとって、高野山は、伊勢参宮の序(つい)でに立ち寄る場所ではなく、大事な旅の目的地の一つであったのです。  中世古文書調査 室町時代後期に世田谷を本拠とした吉良氏ですが、それ以前は奥州管領として東北地方で活動していました。 奥州管領時代の吉良氏の古文書は、昭和34(1959)年に刊行された『世田谷区史料 第二集』にも収録されていますが、近年、あらたに見つかったものもあります。 そこで中世史編さん委員会(旧中世専門部会)では、世田谷を本拠とするまでの吉良氏の動向を知るために、東北地方に残っている吉良氏関係の古文書の調査を進めて来ました。令和2(2020)年以降、新型コロナウイルス感染症の影響により調査の中断を余儀なくされていましたが、今年度ようやく再開することができました。 吉良氏と世田谷のつながりがはっきりわかる最も旧い古文書は、永和2(1376)年1月29日付の「吉良治家(きらはるいえ)寄進状」(鶴岡八幡宮文書)です。 これは、吉良治家が世田谷郷内上弦巻の半分を鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進した際のもので、14世紀後半には吉良氏の所領が世田谷にあったことがわかります。 また、吉良治家が鶴岡八幡宮に宛てた別の古文書には、「亡父貞家(ぼうふさだいえ)」が同八幡宮に土地を寄進したことが記されていて、吉良氏は、貞家の時代から鶴岡八幡宮と関係があったこともわかります(史料では治家の父は貞家と書かれていますが、吉良氏の系図では、貞家と治家の間に治氏という人物がいます)。  吉良貞家は、足利尊氏に従って各地を転戦し、京都では幕府の訴訟担当役である引付頭人を勤めた人物で、その後、奥州管領として東北へ下向しました。  今年度、調査したのは吉良貞家・治家関連の古文書で、以下の通りです。 ◆国魂(くにたま)文書(福島県いわき市 大國魂神社<おおくにたまじんじゃ>) 【写真】大國魂神社本殿(いわき市指定有形文化財) 【写真】国魂文書が収められている文箱  貞治5(1366)年12月9日付「吉良治家書下」ほか20通。  文和2(1353)年12月4日付「吉良貞家書下」は、貞家の活動を確認できる最も遅い時期の古文書です。現地では、荻野三七彦(おぎのみなひこ)氏を中心とする前回の区史編さんの調査の様子など、貴重なお話も伺うことができました。 ◆大悲山(だいひさ)文書(福島県南相馬市 南相馬市博物館寄託)  貞和3(1347)年4月2日付「吉良貞家・畠山国氏連署挙状」ほか14通。  源頼朝の有力御家人だった千葉常胤(ちばつねたね)の次男師常(もろつね)から始まる相馬氏の一族大悲山(だいひさ)氏に伝わった古文書です。前回の区史編さんでは未調査でした。康永3(1344)年6月18日付の「相馬朝胤着到状」に書かれた花押は、治家のものとされています。 ◆板橋幸一家文書(福島県石川町 個人蔵)  観応3(1352)年4月13日付「吉良貞家推挙状」ほか5通。  平成18(2006)年に刊行された『石川町史 第3巻 資料編1』の編さん過程で発見されました。貞治6(1367)年1月22日付の「吉良治家奉書」は、現段階で存在が知られている古文書の中で治家が奥州時代に発給した最も遅い時期のものです。 ◆東京大学文学部日本史学研究室所蔵文書(東京都文京区)  永徳2(1382)年4月13日付「鳩井義景(はとがいよしかげ)打渡状(うちわたしじょう)」ほか4通。  世田郷と世田氏の名が記された「鳩井義景打渡状」は、世田谷区域の地名が記された数少ない南北朝期の古文書で、前回の区史編さんの際には存在が知られていませんでした。また、この打渡状に先立って足利氏満が発給した御教書にも世田郷と世田氏の名が見えます。この「足利氏満御教書」は現在、栃木県大田原市の川上明男氏の所蔵で、令和元(2019)年6月に調査を行ないました。世田谷区域の地名が記されたこの二通の古文書については、令和5(2023)年3月刊行予定の『区史研究世田谷』第3号にて詳しくご紹介します。  最後になりましたが、貴重な調査の機会を与えて下さった所蔵者の方々をはじめ、ご協力いただきました皆様に心より御礼申し上げます。 <参考文献> 『世田谷往古来今』平成29(2017)年 『相馬市史 第4巻 資料編Ⅰ 中世』令和2(2020)年 『新編西尾市史 通史編1 原始・古代・中世』令和4(2022)年 駒沢母子寮と「めぐみ保育園」―愛隣会とその時代 深沢3丁目の児童福祉施設「めぐみ保育園」は、今日も元気な園児達の声で賑わっています。 同保育園は区内でも歴史のある保育園の一つであり、終戦後(昭和21〔1946〕年1月)に開設された社会福祉法人愛隣会(あいりんかい)(目黒区大橋)が経営する施設です。 ここでは、同会から提供していただいた資料をもとに、この保育園に関わる歴史をたどってみます。 終戦直後、国内の都市部は、食料や住む家、家族を失った人々が街に溢れていました。 とりわけ上野駅の地下道には1000人を超す人々が集まり、社会問題化していました。 こうしたなか、日本基督(きりすと)教団正教師の髙橋直作らは東京都の委託を受けて彼らの救護に乗り出しました。 目黒区と世田谷区の境目にあった旧陸軍近衛輜重兵大隊の兵舎を借り、地下道で暮らす人々を収容して「目黒厚生寮」の看板を掲げたのです。 その本部となったのが愛隣会でした(昭和23[1948]年9月認可)。 【写真】近衛輜重兵大隊の兵舎(上)と営門(下)(世田谷区立郷土資料館所蔵) 愛隣会が経営する厚生寮は、収容した人々に食料を支給し、社会復帰の機会を与えることが目的でした。 その救済対象は都内各地に及び、収容者は直ぐに1000人を超え、施設自体が不足しました。 また収容者の中には、戦争で夫を失ったいわゆる「戦争未亡人」たちも少なくありませんでした。 このため愛隣会は、母子保護の必要から世田谷区内の「駒沢ゴルフ場」(現駒沢オリンピック公園)の事務家屋を東京都より借り受け、厚生寮から61名の母子をそこに移して「駒沢母子寮」としたのです(昭和22[1947]年1月15日)。 そして翌23年7月1日には、敷地内に「めぐみ保育園」を併設しました。 これにより母子寮の母親が外で安心して働けるようになり、同年10月には利用者も132名にまで急増しました。 母子寮は「窓は大きく、採光に恵まれ、天井に張板がないので、開けつ放しの秘めごとのない明るさ」を感じる施設でしたが、三間四方(5.46×5.46㍍)の一部屋に三世帯の母子家族が畳を分け合って暮らすなど、大変「慎ましく」生活されていたようです(昭和30[1955]年頃)。 昭和29(1954)年1月の生活保護法施行に伴い、母子寮が「宿所提供施設」に種類変更されると、様々な事情で同施設を利用する母子が益々増えていきました。 昭和30(1955)年に160名、31年には200名64世帯にまで利用者が急増しています。 その後、駒沢母子寮は近接する東京都立大学深沢キャンパスの整備に伴い、目黒区の愛隣会敷地内へ移されて「上目黒母子寮」(のち「氷川荘」)と改称されました。 一方、「めぐみ保育園」は、当時もたくさんの園児を預かっていたため目黒区へは移転せず、少し離れた現在の場所(深沢)へ移ることになりました(昭和38[1963]年4月)。 現在、愛隣会は目黒・世田谷の両区に10施設を置き、高齢者、障害者など様々な分野で地域福祉に貢献しています。 近年では世田谷区の待機児童対策要請に応え、「めぐみ保育園」の分園として「いずみ保育園」を開園(平成23[2011]年4月)、さらに「子ども・子育て支援法」施行に伴い、特定教育・保育施設に移行(同27年4月)して地域の家族を支えています。  <参考文献>   『ニューエイジ』10巻第5号 昭和33(1958)年   『私の新約―八十八年の生涯』昭和48(1973)年   『50年の歩み』平成10(1998)年 『70年の歩み』平成28(2016)年        『区史研究 世田谷』第3号発刊 令和5年4月より、区政情報センターなどで販売予定です(税込価格550円)。区内の図書館・図書室での閲覧も可能です。 【論文】  〇江戸周辺地域における藩領御林と開発  〇近世初期の彦根藩世田谷領村々における貨幣使用の実態 【研究ノート】  〇鎌倉法泉寺領 武蔵国荏原郡世田郷について  〇書物奉行在任期の石井至穀と紅葉山文庫 【史料紹介】  〇永原和子資料にたどる世田谷の戦後女性運動 【その他】  〇世田谷区廻沢北遺跡出土の細石刃に付着した黒色物質に関する考古学的知見と科学分析にいたる経緯  〇世田谷区廻沢北遺跡出土の細石刃に付着した黒色物質に関する調査報告 聴かせてください・・・ 戦時中のお話、戦後のお話、聴かせてください。 戦争体験、学童疎開、学徒勤労動員、占領下の様子など、皆さまに直接伺って記録に残していきたいと思います。口述記録は現代史の大切な資料です。 ちょっと待って!捨てる前にご連絡を。 皆さまのお宅の押入れや物置に、古い写真やアルバム、日記、手紙、はがき、書類、レコード、戦前の新聞、家計簿、雑誌などが眠っていませんか?  これらは貴重な歴史資料かもしれません。 捨てられる前に、まずはご連絡ください。 担当が伺います。   区史編さん担当:03(3429)4285