第6号 令和4年(2022)3月  世田谷の「ウテナ」   基礎化粧品やヘアケアなどで広く知られる株 式会社ウテナは、区内烏山に本社を構えていま す。ここでは、同社からご提供いただいた資料 をもとに、ウテナの歴史をご紹介します。  福岡県出身の実業家、久保政吉氏が東京市本郷(現・文京区本郷)に「天仁堂」を開業した のは、大正7年(1918)のことでした。 そののち、北多摩郡千歳村(現・世田谷区南烏山)に工場を置き、昭和2年(1927)には本郷の本店を「久保政吉商店」と改めています。 南烏山への工場設置は、美白化粧品「ウテナ液」の大ヒットにともなう増産と販路拡大が目的でしたが、何よりも注目されたのはその販売方法でした。 女性雑誌の広告による通信販売を採用したほか、女優の水谷八重子を広告に起用し、懸賞として購入者にそのサイン入りブロマイドを提供するなど、当時としては画期的な手法を採り入れたのです。 これらが話題を呼んで「躍進又(やくしんまた)躍進」を遂げ、昭和10年には従業員数が300名を超える、区内でも有数の大工場となりました(『実業の世界』昭和10年6月1日)。 昭和12年には社名を「ウテナ化粧料本舗・株式会社久保政吉商店」(以下単に「ウテナ」)と改称しています。 しかし、戦時中は原材料の輸入が困難になり、化粧品の出荷量が急減、さらに「不急不要品」として扱われ、戦時特別税として高率な物品税が課せられました。 また、ウテナの工場も軍の管理下に置かれたため、粕谷に小さな工場を設けて、かろうじて出荷を続けましたが、結局、生産中断を余儀なくされました。 ウテナの再始動は、戦後の昭和21年のことでした。  昭和22年9月当時、区内にはウテナのほかに、共同化学工業(経堂)、シャワン化粧(奥沢)、パツディ化粧(北沢)、矢野化学(太子堂)、エッセンス化粧(東玉川)など、およそ17の化粧品製造会社がありました。 【写真】ベルトコンベアーを使った流れ作業の様子。奥には出荷を待つ商品が積まれている(昭和44年頃、株式会社ウテナ提供)。 【写真】昭和50年代まで使われていた本社の建物(株式会社ウテナ提供) しかし、戦後も引き続き原材料や資材不足、資金難に各社とも悩まされ、生産中止に追い込まれた会社も少なくありませんでした。 なかには化粧品の代わりにアイスキャンデーを製造、販売する会社もありましたが、ウテナも例外ではなく、ベルタミン、アストミンなどの錠剤を製造販売して戦後の物資不足を凌ぎました。 それでも、当時200名もの従業員を抱えながら、社内は「至つて家族的」で、労使間の問題もなく、「平和」だったそうです(『世田谷新聞』昭和22年11月18日)。 高度経済成長(昭和29〜48年)は、国民に生活水準の一層の向上をもたらし、化粧品業界でも出荷額を飛躍的に伸ばしました。 需要増加の背景には、女性の社会進出や、男性・子供に至るまで化粧品の使用層が拡大したことがあったようです。 また消費の特色としては、「基礎化粧品」の需要が圧倒的に多く、昭和39年の化粧品出荷比率では47.7%を占めていました。  ウテナも、昭和25年に社名を「株式会社ウテナ」と改め、「ウテナミルククリーム」(昭和 27)、日本初の男性化粧品「ウテナ男性クリー ム」(昭和32)、同じく日本初の子供向け化粧 品「ウテナお子さまクリーム」(昭和40年) を発売し、以降も次々と大ヒット商品を生み出 してきました。今やウテナは、親から子へ、そ して孫へ伝わる、歴史のある化粧品会社として、 世田谷を代表する企業の一つとなっています。 【写真】子供向け化粧品「ウテナお子さまクリーム」(株式会社ウテナ提供) 小前百姓の盗難届 文化7年(1810)8月1日、奥沢村の百姓新右衛門宅に盗賊が入りました。 新右衛門の家族が寝静まった同日の深夜、何者かが同人宅に侵入し、錠のかかった部屋にしまってあった長持ちの中から、帯・袷・綿入など衣類数点のほか、82両2分(小判59両、小粒10両2分、南鐐13両)という大金を盗んでいったのです。 小粒とは、秤量貨幣の豆板銀(金1両=銀60匁)のことで、南鐐は、計数貨幣の二朱銀(=金0.125両)のことです。  それから2日後、当時、病を煩っていた新右衛門に代わって、親類の市五郎が、幕府代官・大貫次右衛門の役所に盗難届(右写真・旧奥沢村毛利家文書)を提出しました。  しかし、この届は受理されず、却って「百姓身分、殊に持高に不相応の金子を持っていたのは如何なることか」と糾明される始末でした。  これに対して、市五郎が、再度、役所に提出した届書によると、新右衛門は、当時、夫婦2人暮らし(もとは5人家族)で、その持ち高は、15石3斗(自村分8石8斗余り、他村分6石5斗余り)程だったといいます。  また、盗まれた82両2分のうち、20両は、伊勢太々講の掛け金を預かっていたもので、残る62両2分が新右衛門の持ち金でした。  この62両2分の金は、作徳米を売った代金を人に貸し付けて得た利金を、4、50年の長きに亘って貯めた金だったといいます。 現代の金額に換算すると、1両は10万円に相当するとも、30万円に相当するともいわれていますから、老後の生活をゆとりあるものとするに充分な額の金を新右衛門は貯めていたことになります。  この新右衛門は、名主などの村役人を勤める上層農民ではなく、極く平均的な小前百姓でしたが、それでも、親子五人が食べていくのに困らないどころか、さらにその上、この程度の金を蓄えることも可能な生活水準にあったわけです。  戦後の学説では、江戸時代の農民を土地に緊縛された不自由民と規定し、高額な年貢を搾り取られて、食うや食わずの過酷な生活を強いられた惨めな存在であったとしてきました。 また、小学校では、「お百姓さんは、小判のような高額貨幣を、一生に一度、手にすることが出来るか、どうかであった。」と教えていたこともあります。  さすがに今では、当時の農民の生活がそこまで悲惨であったと考える人も少なくなったように思いますが、「江戸時代における農民の生活は過酷を窮めた」という悪いイメージがいまなお一般に根強く残っているように感じられます。  新右衛門の場合、「持ち高に不相応である」とお上が訝るくらいなので、当時の小前百姓の全てが、この新右衛門と同等の生活水準にあったとまではいえないにしても、江戸時代に対する悪いイメージを改めるに足る好例といえるでしょう。 従来の研究でも、名主をはじめとする上層農民の生活は、思いのほか豊かであったことが明らかにされていますが、それも極く限られた階層の人たちの話であると考えられてきました。  しかし、実際のところ、江戸時代の農村は、寡婦や老人などの社会的弱者にも優しく、村の誰もが、日々、平穏に暮らせる環境にあったのです。 【写真】盗難届〈部分〉  土器復元作業    現在、区史編さんでは新しい区史の刊行に向けて土器の復元作業を行っています。これは区史に掲載が予定される土器の写真撮影(集合写真)を当座の目的としています。  発掘調査で土器(縄文土器・弥生土器・古墳時代の土師器<はじき>など)が、完形の状態で見つかるのはごく希(まれ)なケースであり、多くの場合、長い間、土に埋もれていた結果、破片か、良くても半完形の状態で出土します。 こうした破片や半完形の土器をでき得る限り元の状態に戻すのが復元作業です。  復元作業は、破片を繋ぎ合わせ(接合)、欠損部分に石膏を入れて補填し、さらにその上に色塗りを施す、というプロセスを経て完成します。 これらは出土品に対する基本的な措置ですが、時間やコストの問題で、復元されずにそのまま放置されている土器も少なくありません。 【写真】石膏入れ 【写真】色塗り  現在、「せたがや文化創造塾」のボランティア養成講座に参加していた区民の方々が中心となって土器の復元作業を進めています。 このようにして復元された土.の姿は、今後、区史本編や展示会場で、多くの方々の目に触れることとなります。 【写真】撮影風景    『区史研究 世田谷』第2号発刊 2号は、 ・「【史料紹介】東京市隣組回報」 ・「縄文時代中期の黒曜石流通の変化―世田谷と東京都の事例をもとに―」 ・「 旗本領における救済と支配の合意形成―武蔵国荏原郡等々力村鈴木領を事例として―」 ・「 近世初期、世田谷における石高制と検地・徴租法について」 を収録しています。  区政情報センターなどで販売予定です(価格550円)。 なお、区内の図書館・図書室での閲覧も可能です。 ちょっと待って!捨てる前にご連絡を。 皆さまのお宅の押入れや物置に、古い写真やアルバム、日記、手紙、はがき、書類、レコード、戦前の新聞、家計簿、雑誌、などが眠っていませんか?  これらは貴重な歴史資料かもしれません。捨てられる前に、まずはご連絡ください。担当がうかがいます。 聴かせてください・・・  戦時中のお話、戦後のお話、聴かせてください。  戦争体験、学童疎開、学徒勤労動員、占領 下の様子など、皆さまに直接伺って記録に残 していきたいと思います。口述記録は現代史 の大切な資料です。     区史編さん担当:03(3429)4285 区史編さん担当移転のお知らせ 区史編さん担当事務局は2022年3月11日より、下記の住所へと移転いたします。    〒154-0016    東京都世田谷区弦巻3-16-8    世田谷区教育会館3階    ※世田谷区立中央図書館の建物の3階です。