1ページ 第5号 令和3年(2021)3月 新型コロナウイルス感染症の影響により、『世田谷区史』の刊行スケジュールを見直します。4 頁をご覧ください。 【写真1】 高田竹山の書をご寄贈いただきました 祖師谷在住の原義胤(よしたね)氏より、『五ご體字類(ごたいじるい)』の編者として知られる漢字学者で、 書家としても著名であった高田忠周(ただかね)(竹山(ちくざん)と号す)の書幅・額・屏風など70 点余りを 世田谷区にご寄贈いただきました(世田谷区立郷土資料館に収蔵)。  今回、ご寄贈いただいた竹山作品は、原氏のご尊父・弥之資(やのすけ)氏の旧蔵品で、 弥之資氏が成城町在住だった高田竹山に就いて書を学んだ縁により、熱心に蒐集されていたものだそうです。  高田竹山は、幼い頃より書を志し、明治11 年(1878)、数え18 歳の時、一家を成して両国薬研堀に書塾を開きました。  それから6 年後の明治17 年、勝海舟の助言に従い、書塾を畳み、「説文六書(せつもんりくしょ)の学」の研究に邁進することとなります。 「説文六書の学」とは、平たく言うと、漢字のなりたちを解き明かす学問のことです。 説文は中国最古の字書『説文解字』、 六書は漢字の成立と用法についての六種類の区別(形象(けいしょう)・指しじ事(しじ)・会意(かいい)・形けい声(けいせい)・ 転注(てんちゅう)・仮借(かしゃ))のことをいいます。 2ページ 翌18 年、竹山は、大蔵省印刷局に入り、紙幣・公債証書の文字を書く仕事に従事し、 書家としての名声を益々高めることとなりました。 また、明治23 年には、長年の研究成果である 『古・篇(こちゅうへん)』35 巻、および『説文文字原譜』1 巻を脱稿しています。 さらに、大正7年(1918)、『再訂 古.篇』100 巻を完成させ、 翌8年にはその功績が認められて学士院賞を受賞しました。  ちなみに、区内松陰神社の社殿前には、長州藩最後の藩主毛利元昭のほか、 木戸孝允、山縣有朋、乃木希典ら旧長州藩士が寄進した灯籠32 基があります。 これらの灯籠の柱に刻まれた寄進者名の隷書体の文字は、高田竹山の手になるものです。 【写真1】は、篆書(てんしょ)一字書「龍」で、竹山84 歳の作品です。 弥之資氏の号が「龍川」であったことから、竹山はこの字を揮毫して氏に贈ったのでしょう。 篆書といっても、秦の始皇帝時代に統一された、いわゆる「小篆(しょうてん)」ではなく、 もっと古い時代(殷・周) の青銅器・銅器や石に刻まれていた、 金文・.文と呼ばれる金石文の字体で書かれています。 漢とはいいながら、象形文字に近く、絵画的な趣が感じられます。 【写真2】は、篆書三行書「孝経開宗明義章」で、竹山83 歳の作です。 これもやはり、秦代より古い時代の字体で書かれています。 儒教の重要な経書の一つ『孝経』の「宗もとを開き義を明らかにするの章」 からの引用ですが、とても文字とは思えない形のものもあり、読解はなかなか難儀です。 〈翻字/訓読〉 身体髪膚受之父母、敢不毀傷、孝之始也。 立 身行道、揚名於後世、以顕父母、孝之終也。 八十三翁竹山倣古/身体髪膚、之を父母に受く。 敢えて毀傷せざるは、孝の始め也。 身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕わすは、孝の終り也。  八十三翁竹山、古しえに倣う。 【写真2】 3ページ 「引揚証明書」からみる戦後   今年で戦後76 年目を迎えます。 ここでは下山繁雄氏からお預かりしている資料の中から、 「引揚証明書」をご紹介します。         引揚者  外地復員軍人    計   年月   人員 世帯  人員 世帯 人員計 世帯計 昭和22 年5 月15,959 6,769 14,880 10,442 30,839 17,211 昭和24 年1 月16,518 6,933 13,893 10,471 30,411 17,404  戦後、外地に出征していた兵士の復員や、開拓移民を含む民間人の引揚者は、 総数660 万人ともいわれ、その復員・引揚作業は、ほぼ完了するまでに十数年という歳月を要する一大事業となりました。 帰還の道は困難を極め、なかには風土病や飢餓でやせ細って帰国した将兵や、逃避行中に殺害されて命を落とす民間人も多数いました。 世田谷区にも、上の表のように多くの人々が帰還してきましたが、膨大な戦死者の正確な数は明らかではありません。 復員兵・引揚者たちが指定港で下船すると、その全員に「引揚証明書」【写真3】が発行されました。 この引揚証明書は復員証明も兼ねており、これにより、今後の生活に必要な日用品や、帰郷のための乗車券などを受取ることができました。  では、この証明書から義雄氏の帰還前後の状況を追ってみましょう。  「陸軍上等兵」だった義雄氏の「引揚前ノ住所」は、「仏印派遣南方第二陸軍病院」となっています。 同病院は仏印駐留全陸軍部隊を統括する第38 軍の所属です。 義雄氏は当初ビルマ方面軍「森」10704 部隊の所属でしたが、 終戦後、サンジャック地区(ベトナム・ブンタウ)にあった第38 軍所属のこの病院に「傷病兵」として入院したようです。 なお第38 軍からは多数の兵士が離隊し、その後、ベトナムの独立戦争に参加した者もいました。  戦後、仏印(フランス領インドシナ:現ベトナム・ラオス・カンボジア)では、21 年5 月から、英・蘭の管理下で第1 次復員が始まりましたが、 9 月に一時中断しています。再開は22 年3 月ですから、義雄氏は5月の復員に間に合ったようです。 サンジャック地区の入院患者約2,000 名は、当時残存していた空母「葛城」を利用して日本に輸送され、 5 月17 日に無事大竹港(宇品援護局大竹出張所)に到着しました。 当時太平洋方面からの輸送は主に浦賀港(横須賀市)を利用していましたが、 コレラ発生により入港先が変更されたようです。  義雄氏は同年5 月24 日に無事帰郷しましたが、すぐに陸軍第一病院に入院、 その後、秦野村(現秦野市)の国立神奈川療養所(現神奈川病院)に転院しています。 入院先から「自分も内地に帰つて大分病気も良く成つた様に思ひます」と手紙に認めていますが、 全快にはかなりの時間を要したようです。 その後、昭和24 年から白菜の栽培に従事、品種改良により「下山千歳白菜」の開発に成功しています。  このように、「引揚証明書」からは、その人がどこで終戦を迎え、どのように帰還したのか。 一人一人の戦後が見えてきます。 【写真3】「引揚証明書」:切取られた部分は「主要食糧特配購入券」と思われます。 4ページ ■ 3 ページの参考・引用文献 井川一久「ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究」/ 世田谷区『世田谷 近現代史』/下山義雄『農に生きる―白菜育成にかけたわが人生』/ 第一復員省「終戦時に於ける内外第一線軍隊の概観」/ 横須賀市『市史研究横須賀』第17 号など。  資料をご提供いただいた方々 『区史編さんだより』などをご覧になられた 皆様から貴重な資料をご寄贈いただきました。 寄贈者のお名前主な寄贈品 蒲池 由美子 様戦前の「肖像画」、「絵皿」など。 田浦 京子  様『昭和九年十一月 奥沢地区契約者名簿』( 昭和9) など 熊谷 慶晴  様「デザインアルバム」「展示写真」( 伊勢丹) など 牛山 武茂  様『喜多見商栄会規約』(昭和47年)・「祝新生ボロ市二十周年」襷など商店街関係資料 小森 加寿子 様「写真アルバム」(明治大正期)「8o フィルム」「通産省関係資料」・お手紙など  寄贈者の方々には、コロナ禍にも関わらずご協力をいただき、誠にありがとうございました。  皆さまからお寄せいただいた資料や情報は、区史の編さんに活用させていただきます。今後ともよろしくお願いいたします! ■令和2 年3 月〜 12 月までの主な活動 〇杉並区立郷土博物館……「高井家文書」ほか 調査収集 〇国立国会図書館……東宝ほか企業関係資料・占領期資料調査収集 〇昭和館……写真・映像調査 〇品川図書館……新聞記事調査収集 〇原 義胤家……高田竹山書画調査 ◯豪徳寺……吉良氏宝篋印塔3D 撮影 刊行延期のお詫び  新たな区史は、区制90 周年の令和4 年(2022) から順次刊行を予定しておりましたが、 新型コロナウイルス感染症の区政への影響からスケジュールの見直しを行っています。 刊行を心待ちにされていた皆様には大変申し訳ございませんが、 ご理解のほど、お願い申し上げます。 ちょっと待って! 捨てる前にご連絡を。 皆さまのお宅の押入れや物置に、古い写真やアルバム、日記、手紙、はがき、書類、 レコード、戦前の新聞、家計簿、雑誌、などが眠っていませんか?  これらは貴重な歴史資料かもしれません。 お捨てになる前に、まずはご連絡ください。担当がうかがいます。 聴かせてください・・・  戦時中のお話、戦後のお話、聴かせてください。  戦争体験、学童疎開、学徒勤労動員、占領下の様子など、 皆さまに直接伺って記録に残していきたいと思います。 口述記録は現代史の大切な資料です。   区史編さん担当:03(6432)6144 『区史研究 世田谷』創刊します。  区史編さんの経過や、これまでの調査で得られた新資料の紹介・新知見の報告などを目的として、 『区史研究 世田谷』を新たに刊行いたします。 創刊号は、編さんだより2 号でも紹介しました豪徳寺調査の成果をまとめた特集です。 区政情報コーナー、郷土資料館などで販売予定(価格550 円)。 「区史編さんだより」は今年度より年1 回の発行になりました。なお、区のホームページでもご覧いただけます。