第4号 令和2年(2020)3月 ■田直遺跡発掘調査風景(東京都埋蔵文化財センター撮影)  写真左上の低地が土器捨場 ■流木と土器の出土状況 ◆谷を利用した“土器捨場”  今回紹介するのは、現在の野川沿いにある大 蔵5丁目のたなおしいせき田直遺跡第1次調査で最近見つかっ た縄文時代の“土器捨場”です。田直遺跡第1 次調査は、平成27年(2015)、東京外かく環状 道路建設事業に伴い、東京都埋蔵文化財セン ターが行ったものです。  この土器捨場は、縄文時代後期の集落の西側 に位置するこくていていち谷底低地(当時、この谷底を旧いりま がわ入間川が流れていた可能性があります)で見つかり ました。そこからは、実に6万点近くにも及ぶ 土器片が出土したのです。谷を利用した縄文時 代の土器捨場は、世田谷で初めての発見でした。 ◆出土遺物の再整理・見直しを進めています  《発見》縄文人の“どき土器すてば捨て場”  23区で最多の遺跡数(約300ヶ所)を誇る 世田谷区では他区に先駆け、昭和50年(1975) 頃から遺跡調査体制の充実を図り、本格的な発 掘調査を行ってきました。それから半世紀余り が過ぎ、膨大な記録と出土遺物が蓄積された結 果、原始古代人たちの多彩な営みが明らかに なっています。  区史編さん原始・古代部会では、『考古編』 の刊行に向け、現在、膨大な量の出土遺物を再 整理し、見直す作業を進めています。 ◆土器捨場から見つかった珍しい形の土器 ◆漆の用途は?  一般に注口土器は、出土量の多いふかばちがたどき深鉢形土器な どに比べて精巧に作られていることや、出土例が 希少であることから、日常品ではなく、さいし祭祀に関 連して用いられたとする説が有力でした。  しかし、田直遺跡で出土した注口土器を観察 してみると、使用によって器表がまもう摩耗したもの や、漆によって注口を接着した補修の痕を残す ものが多数認められます。また、漆を接着材と して使用した例は注口土器以外にも見られます。  このことを踏まえると、注口土器は、祭祀に のみ限定使用されていたわけでなく、実用品と しても用いられていたと考えられます。出土品 の一部には、彩色のための下地として漆がとふ塗る された土器も見られますが、田直遺跡では専ら 漆が接着材としての役割を担っていたようです。  土器捨場は、当時のごみ捨場に他なりません が、貝塚などと同様に、現代の我々に貴重な情 報をもたらしてくれるのです。  土器捨場から出土した土器片は、その大半 が今からおよそ4千2百〜3千8百年前の縄 文時代後期(堀之内式ないし加かそり曽利B式)の 土器です。この土器捨場の東側の台地で同時期 の住居跡が見つかっているので、そこに居住し ていた人々がこれらを投棄したものと考えられ ます。また、その中には、ちゅうこうどき注口土器(注ぎ口と 把とって手が付いたどびん土瓶や急須の形をした土器)や内 側全面に漆が付着した土器、漆による補修のあ る土器などがあり、特殊で珍しい遺物がひとき わ目をひきます。  注口土器は、これまでも区内のすわやま諏訪山いせき遺跡や 奥沢台遺跡から出土していますが、集落遺跡で の出土はごく限られています。しかも復元する とほぼ完形となるような個体が5・6点にも及 ぶ例は、これまで区内にはありませんでした。 これは人々が長い間ここを土器の廃棄場所とし て利用し続けたからなのではないでしょうか。 ■土器捨場から出土した注口土器(縄文時代後期) ■漆保管容器 ■漆保管容器の内面  「幻のオリンピック」と総合競技場−国土地理院所蔵の写真から  昭和15年(1940)に予定されていた第12回 東京オリンピックの返上は、各方面に甚大な影 響を与えました。しかし東京市は招致自体を全 く諦めたわけではありませんでした。将来の開 催に備え、主競技場予定地であった駒沢ゴルフ 場敷地に「駒沢綜合競技場」を建設しようと、 すぐに動き出しています。  もともと東京市は「大東京市将来の計」を念 頭に、総合競技場の建設を目論んでいたのです。 ところが資材不足などでこの構想はすぐに破綻 します。そこで東京市はこれに代わる場所を撤 去予定の淀橋浄水場に求めましたが、それも適 いませんでした。駒沢の予定地を運動場や公園 にしようという声もありましたが、戦時中は防 空緑地とされ、その後陸軍省や軍需省が使用し たようです。  昭和23年(1948)には農林省が同地を買収 して食糧増産用地としますが(写真2)、翌24 年に東京都が買い戻し、第4回国民体育大会の 際はハンドボールなどの会場として使用されま した。そして26年、東京都は同地で「東京都 駒沢総合運動場」の建設に着手します。  一方世田谷区は、翌27年に早くもオリンピッ ク会場の誘致に乗り出しました。昭和28年に は、のちに東映フライヤーズの根拠地となる駒 沢球場も建設されましたが、敷地内はまだ未整 備な運動場でした(写真3)。  しかし東京都は、昭和34年(1959)に 第18回オリンピックの誘致に成功すると、 同地をオリンピックの第二会場に決定、都 市計画法に基づき公園整備事業を進めまし た(駒沢オリンピック公園)。  第12回東京オリンピックは「幻」と なりましたが、戦争を経て、東京市所期 の目的であった総合競技場の建設は達成 され、「東京都唯一の総合運動場を併せ もつ公園」として現在に至っています。    (参考・引用文献は4ページ) ■(写真2)農地化により境界が不明瞭ですが、一方で周辺の 宅地化も進んでいます。(昭和23年3月3日/米軍撮影) ■(写真1)予定地だった駒沢ゴルフ場。うっすらとゴル フコースが確認できます。(昭和11年8月/陸軍省撮影) ■(写真3)28年 に完成した東映フ ライヤーズの本拠 地、駒沢球場が見 えます。(昭和32 年10月10日/米 軍撮影)。  貴重な資料のご寄贈・情報のご提供  ありがとうございました  ◆ちょっと待って!     捨てる前にひとことご連絡を◆   『区史編さんだより』などをご覧になられた 皆様から貴重な資料をご寄贈いただきました。  ここにお名前をご紹介できなかった方々から も多くの資料や情報をいただきました。  皆様からお寄せいただいた資料や情報は、区 史編さんに活用させていただきます。  皆様のお宅の押入れや物置に、古い写真、 アルバム、手紙、はがき、様々な書類、レコー ド、カセットテープ、8ミリフィルム、ビデ オテープ、地図、家計簿、新聞、雑誌、チラ シ、書画、絵画などが眠っていませんか。こ れらは貴重な歴史資料です。お捨てになる前 に、まずは担当までご連絡をお願いします。  区では、皆様のお宅に眠っている資料を発 掘、 収集し、地域に生きた人々の暮らしぶり が活き 活きと伝わる区史にしたいと考えて おります。  また、戦時中の体験談などを皆様に直接伺 い、 記録に残していきたいと思います。ご協 力のほどよろしくお願い申し上げます。   区史編さん担当 03(6432)6144 寄贈者のお名前 主な寄贈品 安曽 徳市郎 様 新住居表示案内図(昭和41年) 岸和田 貞子 様 暮しの手帖(昭和23〜40年) 新堀 和由  様 下馬地区区画整理組合事業報 告書(昭和17年) 竹村 津絵  様 株券(満州)及び関連の領収 書(昭和16年) 沼田 敦子  様 不動産帳簿(昭和21年) 原田 宏子  様 大東京明細地図(昭和17年) 廣田 勝彦  様 家族写真(大正11年) ■2019年3月〜12月調査先一覧  『世田谷 往古来今』発売中 月調査 6月 8月 9月 10月 11月 ・彦根城博物館(近世) ・寒川文書館(5月〜10月、近世) ・杉並 大場家(近世) ・医王寺・太田家(近世) ・大田原市 川上家(中世) ・祖師谷 原家(近現代) ・昭和館(近現代) ・品川歴史館(近世・近現代) ・東北大学文学部(中世) ・奥州市立水沢図書館(中世) ・東京都公文書館(近現代) ・ふじみ野市大井郷土資料館       ・個人宅(中世) ・狛江市史編さん室(近世・近現代) ・駒澤大学図書館(近世) ・深大寺(中世) 3月 5月 ■価格/1100円 ■販売場所/ 区政情報センター(世田谷区民会 館内)、総合支所区政情報コーナー、郷土資料館、 世田谷文学館、世田谷美術館  誤字などが多かったため、平成30年4月に 改訂版を作成しました。初版本をお求めいただ いた方には、無料で改訂版とお取替えをいたし ております。上記販売場所まで初版本をお持ち ください。 ■3ページの参考・引用文献 東京市『第十二回オリンピック東京大会東京市 報告書』)(昭和14)/東京都『第十八回オリン ピック競技大会東京都報告書』(昭和40)/世 田谷区『世田谷区議会史』(昭和45)/都スポー ツ文化事業団「事業報告書」(朝日新聞記事デー タベース)/写真1〜3(国土地理院ウェブサ イトの写真を加工) 次回第5号の発行は、令和2年(2020)9月中旬の予定です。