第3号 令和元年(2019)9月 心あてに問ふ人あらは白露を 寿 ほか ひたむけよ榧 かや のもとつえ ■同裏面 ■太田卯兵衛夫妻および同後妻の墓(医王寺)  農民歌人・太田子徳みのりの菩提寺            を訪ねました ◆ 子徳の父母と継母が眠る墓  深沢村の農民歌人として知られる太田子徳みのりの 菩提所ぼだいしょである医王寺いおうじ(深沢6丁目)を訪ねまし た。左上は、同寺墓地内にある子徳の父母と継 母の3人が眠るお墓の写真です。このお墓の施 主は、おそらく子徳で、裏面(右上の写真)に は、彼の作とおぼしき「心あてに問ふ人あらば 白露を 寿ほかひ手た 向むけけよ榧かやの本もとつ枝え 」という追善 の和歌が刻まれています。  子徳は、寛政11年(1799)、江戸に生まれま した。通称を左さ 一いち良ろう(のち、三さん左ざ 衛え 門もん)、いみな諱(本名) を佑すけ(右)良よしといいます。幼い時より和歌を好 み、伊予吉田藩の江えどづめてんい戸詰典医で和学者・歌人と しても著名だった本ほんまゆうせい間游清に就いて歌学を修め ました。子徳はその雅が 号ごうで、別号に菅すげのねのや根屋があ ります。 ◆ 子徳の実父  子徳の実父は、深沢村の組頭を代々勤めた太 田家の第8代当主三左衛門(諱は光みつすけ佑)の次男 で、通称を卯うへえ兵衛(諱は驍スかゆき之)といいます。こ の卯兵衛は、新吉原江戸町1丁目の遊女屋「万 字屋」に奉公して、主人佐野佐助の娘いよを娶めと ります。のち、独立して同じ新吉原の京町1丁 目に「栄さかえろう楼」という店を構えました。彼は学 問にも興味があったらしく、文政元年(1818) には、『聞ぶんけんぞうだんしゅう見雑談集〈全7冊〉』なる本を編んで います。子徳の文学好きは、この父親の影響に よるのでしょう。 ◆ 子徳 本家の家督を継ぐ  一方、深沢の実家を継いだ卯兵衛の兄礒いそはち八は 病弱だったらしく、生涯妻帯せず、子もありま せんでした。太田家の行く末を案じた礒八は、 弟に家督を継いでもらいたいと願っていたよう ですが、卯兵衛には店の経営があるため、おい それと実家に戻るわけに行かないという事情が ありました。そこで、卯兵衛は伜せがれの左一良(子徳) に実家の家督を継がせようと考えたのでしょ う。 子徳が深沢村に移住して来た時期は、はっ きりとしませんが、農業に精通して将来一家を 支えていくことを期待されていたわけですか ら、一刻も早く農村の生活に慣れる必要があっ たに違いありません。こうした点から考えるな らば、子徳が同家の跡取りとして深沢村へ迎え られたのは、遅くとも10代の前半だったとみ て間違いないように思われます。  降くだって文政4年(1821)、義父の礒八が没し、 子徳は太田家の第11代当主となりました。こ の時、三左衛門という由緒ある通称を襲名した ものと考えられます(ただし、その後も左一良 という通称を併用しています)。子徳が数えで 23歳の年のことです。 ◆ 子徳 父母の墓を建てる  父親・卯兵衛は、晩年、新吉原の店をたたん で深沢村の子徳の許へ身を寄せました。  天保5年(1834)に筆写された『農業全書』 (宮崎安貞著)の写本の表紙裏には、 「私(子徳) は、農業全書の巻三まで書写しようと思いまし たが、種まき・耕作の時節になったので、後は 奥に住んでいる老人(父親の卯兵衛)に写して もらうことにし、自分は〈旱稲(陸おかぼ稲)之部〉 の半ばまで写して筆を止めます。」といったこ とが書かれています。それから2年後の同7 年2月28日、卯兵衛が他界しました。この年、 子徳は、父母とその前年に亡くなった継母のた めに、笠付きの立派なお墓(前頁写真)を建て たのでした。ちなみに、このお墓に合葬されて いる継母は、世田谷村字城下で水車業を営む岸 氏の娘で、俗名を「さよ」といいます。  更にそれから25年を経た文久元年(1861)、 子徳もその60有余年に及ぶ生涯を閉じました。 法名を潤澤院菅根祐良居士といいます。子徳の 墓石は、50年程前の墓域縮小に伴い、ほかの 墓石と一緒に一まとめにして墓域の隅へ移され たため、現在は石に刻まれた文字が見にくい状 態になっています。  文政十一年戊子孟春     太田卯兵衛髞V なきあとの  かたみと    なれや  七十の 翁がことに  むかふ    おもかげ       一亭義運 ■一亭義運筆 子徳の実父太田卯兵衛の古希肖像画(太田操氏蔵)  高野山子しいん院の文書調査を始めました  伊勢講・御みたけ嶽講・大山講などの庶民信仰に関 する地じかた方文もんじょ書(村方関係史料)は数多く、区史 や史料集などで取り上げられてきました。これ に対して、高野山信仰に関する地方史料は乏し く、今までほとんど語られることがありません でした。  しかし最近になって、高野山の子院に伝わる 古文書の中に世田谷に関する記述のあることが わかりました。  高野山とは、弘法大師(空海)を信仰の源泉 とする真言宗の一派(高野山真言宗)で、金剛 峯寺を総本山とします。和歌山県伊いと都郡にあり、 山内には130程の子院が存在します。これら の子院は、室町時代後期から近代にかけて、諸 国に使僧を派遣し、檀家の獲得に努めました。  高野山子院の一つである高たかむろいん室院は、戦国時代、 小田原北条氏と師檀関係を結び、同氏の権勢を 後ろ盾にして、相模・武蔵国を中心に布教活動 を進めました。  世田谷にも、この高室院から使僧が訪れてい ます。例えば、弘化4年(1847)の5月中旬か ら下旬にかけては、高見院泰たいしゅんぼう俊房という使僧が 世田谷の村々を巡っています。この時、泰俊房 が訪問した世田谷の村々は、烏山村・瀬田村・ 鎌田村・大蔵村・宇奈根村・世田ヶ谷村・廻沢村・ 船橋村・下祖師谷村・粕谷村・八幡山村・上北 沢村・奥沢村・奥沢本村の14か村に及んでい ます。この高室院のほかにも、桜ようちいん池院などの高 野山子院に世田谷に関する史料が残されている ことがわかってきました。こうした史料を詳ら かにすることで、世田谷の庶民信仰の実態解明 が期待されます。 ■弘化4年『武州児玉郡・多摩郡・榛沢郡・荏原郡・稲毛領・ 小机領廻檀日並記』(「高室院文書」、寒川文書館所蔵写真製 本) ■宝暦3年7月21日『武州多摩郡・橘郡・拝島領・稲毛領・神 奈川領檀廻帳 一』(「高室院文書」、寒川文書館所蔵写真製本) 高室院が廻る世田谷の村々が列記される。  貴重な資料のご寄贈・情報のご提供  ありがとうございました  世田谷歴史講座のご案内  区民の皆様に、世田谷の歴史をもっと知って いただくため、区史編さん委員の先生方より最 新の研究成果をお話しいただく連続講座を開催 いたします。  3月発行の『区史編さんだより』(第2号)な どをご覧になられた区民の皆様から貴重な資料 をご寄贈いただきました。また、下山繁雄様、 原義胤様、毛利明寛様、太田道夫様、太田操様、 大場秀浩様、川上明男様、医王寺様の皆様には、 資料調査に際しまして、情報のご提供・ご協力 を賜りました。皆様からお寄せいただいたこれ らの資料・情報は、区史編さんに活用させてい ただきます。 日程 演題・講師名 11月7日(木) 吉田松陰をめぐる近代史 松本剣志郎(法政大学文学部専任講師) 11月14日(木) 村と町から現代都市へ 世田谷区の誕生 源川真希(首都大学東京都市教養学部教授) 11月22日(金) 小田原北条氏と世田谷 浅倉直美(埼玉県文化財保護審議会委員) 11月27日(水) 古墳時代後期〜終末期の世田谷を考える 松崎元樹(都埋蔵文化財センター調査課課長) 12月5日(木) 世田谷の旗本領主たち 吉岡孝(國學院大學文学部教授) 寄贈者のお名前 主な寄贈品 阿部 淑子  様 罹災証明書 稲垣 道子  様 区体育祭バッジ 梅村 宏子  様 日記学習帳 河原 和明  様 種痘済証など 田中 善三郎 様 レコード 富村  礼  様 戦前の映像(ビデオテープ)・ 分銅秤など 廣井 理恵子 様 父春吉氏の『随想集 日々是 平安』など 細野 元子  様 生立ち日誌 三田 浩一朗 様 航空写真 本井 克紀  様 上皿棹秤 ■時間/いずれも午後2時〜4時  ■会場/郷土資料館集会室 ■参加費/無料 ■申込方法 10月15日発行の「区のおしら せ」・区のホームページでご確認ください。  ◆ちょっと待って!     捨てる前にひとことご連絡を◆   皆様のお宅の押入れや物置に、古い写真、ア ルバム、手紙、はがき、様々な書類、レコード、 カセットテープ、8ミリフィルム、ビデオテー プ、地図、家計簿、新聞、雑誌、チラシ、書画、 絵画などが眠っていませんか。これらは貴重な 歴史資料です。お捨てになる前に、まずは担当 までご連絡をお願いします。  区では、皆様のお宅に眠っている資料を発掘、 収集し、地域に生きた人々の暮らしぶりが活き 活きと伝わる区史にしたいと考えております。 また、戦時中の体験談などを皆様に直接伺い、 記録に残していきたいと思います。  ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。    区史編さん担当 03(6432)6144 ■ラジオ受信料領収証・テレビジョン受信料領収証  (昭和36年) 河原和明氏提供 次回第4号の発行は、令和2年(2020)3月中旬の予定です。