ミニコミ紙106号について、テキスト形式で掲載します。 発行は烏山地区ミニコミ紙編集委員会です。 事務局は烏山まちづくりセンターです。 1面、2面 3校同時避難所運営訓練を実施しました!  平成30年6月に発生した大阪北部地震、9月に発生した北海道胆振東部地震など日本各地で自然災害が多発しています。そのような災害が発生し、自宅に住めなくなってしまった場合に暮らす場所が避難所になります。9月29日に烏山地区内にある区立小学校3校で避難所運営訓練を実施したので、ご紹介します。皆さんも、震災への備えについて考えるきっかけにしましょう! 学校毎で出た意見や感想を掲載します。 @烏山北小学校  今回の訓練は、3校同時訓練となって2年目になり66名が参加した。烏山北小の子ども達と一緒に行っていた避難所訓練とは違い、自分たちで行う運営訓練はまだまだ多くの課題を残した。2年目となり参加した町会・自治会、PTA、地域活動の担当者は多くなり近年の災害への関心度の高さが窺えた。今後の課題として、3校同時(他武蔵丘小、給田小)に行われることになったので、担当の事務局を頼らず、自分たちで事前の勉強会で物品等をしっかり把握しておくこと、また、紙面の行程だけではなく、直面する場面を想定しての話し合いも事前の勉強会でするなど担当者が替わる町会等もあり事前の勉強会が非常に大事だと実感した。(記事:norichi) A武蔵丘小学校  武蔵丘小学校では訓練に71名の参加があった。町田本部長(千駄山町会長)佐藤副本部長(パークアベニュー芦花公園自治会)の指示で、鍵の受け取り、建物の安全確認、倉庫の物品運びだし、設営、通信手段の確保、仮設トイレの設営などを行った。今回の訓練でいくつかの課題も出たが、二つの大事なことを確認できた。一つは、今回の訓練に参加している人が全員災害時にここの開設に関われるかどうかわからないということ。むしろ関われないことを前提としたほうがいいのではないかということ。 もう一つは武蔵丘小学校在校生の父親を中心としたオヤジの会の参加の意義である。訓練に比較的年齢の若い父親たちがいたことで、重い物品の運搬や、テント設営などが非常にスムーズに行われた。また、日頃より親睦を高めているオヤジの会はチームワークもよく、連絡指示系統が明確であるため、訓練にとっては非常にプラスになった。  細かい改善点は訓練後の反省会で意見収集が行われた。今までも、そしてこれからも大きな課題は、訓練に参加した人に毎年同じ役割を与えないということである。いろいろな経験を毎年していただくことでノウハウが増えていくので、このような工夫をもっとすべきだということである。そのためにはマニュアルのさらなる整備、臨機応変に対応できる座学なども今後は必要となってくるであろう。(記事:佐藤健雄) B給田小学校  訓練には、83名が参加し、4つの班(総務・情報、避難所、救護・衛生、給食・物資)のリーダーの指示の下、訓練を実施した。給田小学校も多数のPTAの方からご協力をいただき、初めて参加した方からは、もっと避難所について知りたい、今後はこうした方が良いなど活発な議論が交わされていた。    また、課題として、このような取り組みを多くの人に知ってもらわなければならない、実際の発災時はもっとあらゆる現象が起きると予想されるため、細かい部分まで想定しておかなくてはいけないなどの声が挙がっていた。 3面 何で芦花なのか知っていましたか?〜蘆花と芦花 地元に愛されるその名前〜  「えーっとこのマンションは、アシハナマンションでいいですかね?」  「あ、それロカと読みますが、、、」  こういったやり取りをされた経験のある方は多いと思います。芦屋の芦に花。アシハナと読まれても仕方ないです。しかし、この芦花は元をたどれば蘆花であり、作家のペンネームであるとご存知の方が意外と多いというのを最近知って驚きました。ペンネームは、徳冨蘆花といいます。ここで想像してみてください。一人の作家のペンネームが、町の保育園、小学校、中学校、高校、団地、マンション、広大な公園、医院、店舗、そのほか多くの施設の名前に使われているところが他にあるでしょうか?おそらくないと思います。 京王線の芦花公園駅に関しては、1913年に上高井戸駅として開業したのち、1937年に芦花公園駅に改称され、現在に至っています。徳冨蘆花が亡くなったのが1927年ですからその10年後にはすでに駅名になっていたということになります。 徳冨蘆花は本名 徳富健次郎といいます。熊本県、現在の水俣市の出身です。生まれは1868年。今年生誕150周年です。兄でジャーナリストの徳富蘇峰のもとで下積みをして、自然詩人としてキャリアをスタートさせています。1907年から今の蘆花恒春園がある当時の東京府北多摩郡千歳村大字粕谷に居を移し、亡くなるまでの20年間を過ごしています。亡くなった後、家は東京市に寄贈され、のちに蘆花恒春園となりました。徳冨蘆花の墓もこの地にあります。また、家は現在も残っていて、見学することができます。記念館には当時の貴重な資料や、蘆花の写真なども展示されています。周りには見事な竹林もあります。  29歳の時に書いた小説では不如帰(ほととぎす)という作品が有名です。余談ですが、この作品を書いたのは実は逗子市で、その時滞在していた定宿の近くの土地が公園化されています。実は逗子市にも世田谷区以外では唯一、蘆花の名前を冠した公園「蘆花記念公園」があります。 何気に使っている芦花のルーツ、徳冨蘆花生誕150年、ぜひ一度、どんな顔をしていたのか、どんな作品を書いたのか、どんな生活をしていたのか、蘆花恒春園で確かめてみてはいかがですか?(記事:佐藤健雄) 【開園時間】9:00〜16:30      (徳冨蘆花旧宅および蘆花記念館は16:00まで) 【交通案内】京王線「芦花公園」または「八幡山」下車 徒歩15分       京王線「千歳烏山」、小田急線「千歳船橋」間の京王バスで、「芦花恒春園」下車 徒歩7分 4面 〜烏山歴史探訪〜 専光寺  烏山寺町の中に専光寺という名前の寺があります。歌麿寺とも呼ばれています。その理由は境内に浮世絵師 喜多川歌麿の墓があるからです。浄土宗のお寺で創建は江戸時代初期の慶長6年。現在の場所に移転したのは昭和2年のことでした。もともとは品川の六百坪の土地の中にあったそうです。徳川家康が江戸に入ったことをきっかけに、寺はその後馬喰町に引っ越し、明暦3年に発生した明暦の大火を機に浅草新寺町に再度移転しました。その後1923年(大正12年)の関東大震災によって本堂や庫裏を焼失し、1927年(昭和2年)に現在地である烏山に移転したそうです。ではなぜ、歌麿の墓がこの寺にあるのでしょうか?どうやら浅草にこの寺があった頃、北川家の菩提寺としての付き合いが専光寺との間であったようです。北川(のちに喜多川)歌麿は景色よりも、人物画が一般的には知られています。ポッピンを吹く女、寛政三美人が有名な作品となっています。  開国後、日本の美術作品の多くが海外に出て行ってしまいましたが、歌麿の作品もしかりで、ボストンの美術館には383もの作品が所蔵されています。保存状態が非常にいいことで知られています。江戸時代、歌麿の浮世絵はあまりの人気に、幕府が世を乱すものとして取り締まりをするのですが、それでも人気は衰えず、絵の題材として取り上げた無名の女性はあっという間に江戸中に知れ渡ったそうです。作品で将軍のことを揶揄したのではないかと疑われ、 50日間拘束されたこともあったそうです。さらにこのことが歌麿の人気を高める結果となり、浮世絵の発注が後を絶たなかったそうですが、拘束された2年後に54歳でこの世を去ります。そして専光寺に葬られたのです。作品だけでなく、江戸の人々の心を揺さぶっていた喜多川歌麿。墓石は境内に入ってすぐのところにあり、日本語、英語の説明看板が立っています。百聞は一見に如かず。一度訪れてみてください。(記事:佐藤健雄) ※東京都指定史跡 ※アクセス  千歳烏山駅北口バス停留所から関東バス「久我山病院」行き乗車、「寺院通四番」バス停留所で下車。