「せたがやの教育」108号(12面)

最終更新日 令和2年3月28日

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インタビュー教えて! せたがやの星 【第14回】
作曲家・舞台音楽家 宮川 彬良さん

世田谷区在住で、作曲家・舞台音楽家として活躍されている宮川彬良さんにインタビュー。

子どもの頃のお話や、現在の職業をめざしたきっかけ等、さまざまなお話を伺いました。
<補足>このページでは、広報紙に掲載できなかった部分も含め、インタビュー全文を掲載しています。

作曲家・舞台音楽家 宮川 彬良さん

1961年東京都出身
劇団四季、東京ディズニーランドなどのショーの音楽で作曲家デビュー。その後、数多
くのミュージカル・舞台音楽を手掛ける。代表作に「ONE MAN'S DREAM」「身毒丸」
「ザ・ヒットパレード」「マツケンサンバ2」などがある。
演奏活動にも精力的に取り組み、『コンサートはショーである』を信条に、さまざまな企
画のコンサートを日本全国で行っている。作曲、編曲、指揮、ピアノ演奏、解説すべてが
自身によるそのコンサートは、「未来の音楽授業!アキラ塾」「宮川彬良×米良美一ふた
りの歌謡ショウ」「アキラさん's アカデミー」「0歳からのパントマイム・オーケスト
ラ」など多彩なスタイルを披露、幅広い層に親しまれている。
演奏会でよく演奏される「風のオリヴァストロ」は、TV番組「AQUOS美術館『かくて
名画は生まれた』」のテーマ曲として作曲し、のちに歌詞がつけられ代表作のひとつと
なった。また、「シンフォニック・マンボNo.5」はベートーヴェンの交響曲第5番「運
命」とペレス・プラードの「マンボNo.5」をミックスした究極のアレンジ作品で、海外で
も人気がある。
NHK Eテレ「クインテット」、BS2「どれみふぁワンダーランド」、BSプレミアム「宮川
彬良のショータイム」で音楽担当ならびに出演。歌劇「あしたの瞳」、アニメ「宇宙戦艦
ヤマト2202分の2199」、NHK木曜時代劇「ちかえもん」、連続テレビ小説「ひよっこ」の音
楽、「第68回紅白歌合戦」のオープニングテーマ作曲、祝祭音楽劇「天保十二年のシェ
イクスピア」など、その活躍の場は多岐にわたる。

そこにいるお客さん全員が腹を抱えて笑い、
何故か全員が涙を流す、そんな音楽会が常にやりたい

将来を決めるきっかけとなった、子どものころの出来事

現在のご職業をめざすきっかけとなったエピソードについてお話を聞かせていただこうと思います。

―子どもの頃の話ですね。そもそもピアノは、自分で「習いたい!」って言ったらしいんですけど、覚えていないんですよ。不真面目な生徒で、ふざけてばっかりいました。

何歳の頃から習っていたんですか?

―3歳くらいからご近所の先生に習ってはいたんですけれど、ほとんど上達もせず、とにかくテレビ番組の7時からの番組と7時30分からの番組、それの間のコマーシャルが3分くらいあるでしょ?3分間が1日の練習量・・・という。

本当に「合間」ですね(笑い)。

―そうなんですよ。まあ、そうこうしていると晩ご飯になるみたいな感じで(笑い)。本当に練習しない子だったんですけど。それが一変するんですね。やっぱり自分で「あっ、これはやりたいんだ!」とか、「自分にもできるかもしれない!」とかそこに気づいたのがね、小学校5年か6年の頃ですかね。ビートルズの『Let It Be(レット・イット・ビー)』という映画が、記録映画なんですけれどもね。それが公開されていて、ちょうど1969年ぐらいですよね、解散する年。ちょっと記憶が曖昧だけれども、僕が5年生の時かな。それを友達と観に行ったんですよ。銀座の映画館にね。

そしたら、そこでポール・マッカートニーが譜面を見ないで両手でピアノ弾いているじゃないですか、しかも歌って。ふむふむ、習っている気配はないぞ、と。

ピアノを嫌々習うってのはどういうことかっていうと、音楽やりたい人は、最初習う前は、音楽・音に興味があるはずですよね。でも、「習う」っていうといきなり楽譜からの“目情報”が入ってくるわけじゃないですか。目から音楽が入ってくるっていうのはどうも不自然なんですよね。後々楽譜の必要性を理解してからは別に問題ないんですけど、わかるまではすごく抵抗があるから、よっぽどでないと逃げ回っちゃうわけですよね。そこにビートルズがやって来て「あっ、耳だけで、感覚だけでやっている人たちもいるんだ!」っていうことを、その映画から子どもながらに理解したんでしょうね。

それからです。ポール・マッカートニーが弾いていた『Let It Be』のイントロのピアノソロをレコードで何回も何回も聴いて、いわゆる“耳コピ”っていうのをし始めて。そうすると、ちょっと答え合わせをしたいなと思って、そのうち市販の譜面を買ってもらったりとかしてね。そしたら、自分が弾いていたのとだいぶ違うとか、いや俺の方が合ってる!とかね(笑い)。

そんなことで急に演奏が一番好きなことになっちゃいましたね。自分から自発的にピアノを弾いたり、思い付くまま適当に弾いて遊んだり。たとえば、ずーっとペダルを踏みっぱなしにして、好きなメロディーをゆっくり単音で弾くとかね。それだけでも感動するんですよ。「いいなぁ!」って思える瞬間がある。

そうなるとあとは早いわけです。それまでチンタラ練習していたのが、急に「ちゃんとしたピアノの先生につく!」っていうのも自分で言い出して。町のピアノ教師じゃなくて、ちゃんと音大のピアノ科を出られて、あるいは在籍されているような、本格的にプロになるための先生につくという風に、急にシフトして。1日何時間とか弾くと、「あっ、本当に指って動くようになるんだな」っていうことにも目覚めましたね。

急転換しましたね。

―(笑い)本当に僕の娘なんかピアノの専門家ですけれども、普通に1日8時間とか10時間とか弾いていますよ。さすがに僕はピアニストになろうっていうイメージではなかったんで、そこまでではなかったですけど、まあ2時間くらい毎日弾くようになったり、指の練習だけでずーっと1時間弾き続ける、とかね。そういうことは小6から中学に入ったくらいから本格的に始まったという感じですかね。

その時、ピアノに対しての向き合い方が変わってきたということもあると思うんですけど、将来なりたいというビジョンは明確にはあったのですか?

―「なりたい!」っていうのだけは小学校1年くらいから明確に。それはもう、お父さんがかっこよかったからですね。自分の目から見ると、「お父さんみたいになる!」というのは、月並みですけどすごく強くて。

作曲家になりたいというのは、小学校1年の作文に“将来の夢”とかって書く時に、「僕は作曲家と編曲家としてもやっていきたい」とか書いて。そしたら、大人にすごいウケて。持って帰ってきた作文を父の回りの大人たちが見て「アキラくんはお父さんより偉くなるんだよな~!」って言われて、僕が「うん!」って言うと皆が「ワー!」って(笑い)。ウケるんです。そしたらこんどは「ウケるってこんな気持ちいいんだ!」って思って(笑い)。

音楽に憧れたって言うより、音楽家であるお父さんに憧れて、しかも「ウケる」ということに非常に快感を覚えて(笑い)。だって、「僕も作曲家になるんだ!」っていうのを5歳の子どもが言ってたら、大人はもう笑うしかないじゃない!(笑い)「やってみな」みたいな。「やるな」とも言えないだろうしさ。だから、周りが盛り上がるっていうのはね、動機としては充分なものがあるんですよ。子役みたいな感じですよ、きっと。子役なんかも多分快感なんだろうな、と思いますね。

自分のセリフを言うことで、大人が反応してくれて…。

―そうそう!「うまいね!」とか「すごいね!」とかって言われるのがね。まだ音楽的にはすごくないんだけれども、“ウケる”ってすごいんだなと。僕の父は「ウケる」音楽をやっていたんでね。人によっては「自分の音楽は芸術だからウケる・ウケないは知らないよ」っていうこともあるじゃないですか。でも、「ウケてなんぼ、人が喜んでなんぼ」っていう音楽をやっていたので、父たちは。そのマインドは自然と受け継いで(笑い)。

お父様は作曲家で、宇宙戦艦ヤマトや、ザ・ピーナッツの作曲等でも有名ですが、お父様も作曲しながらTV等にご出演されていましたね。

―表に出ていましたよね。それが裏方だけだったら、あんなに憧れていたかちょっと疑問です。やっぱり家で譜面を書いて、忙しそうにマネージャーの人たちと自動車に乗って出かけていく。その晩、っていうことはないだろうけど、家でテレビつけると『シャボン玉ホリデー』とかで、「ああパパはこれを作ってたんだな」って。メドレーを演奏していたり、あるいはコントにちょい役で出て、「あっ、パパ映った!」みたいな。

コントにも出られていたんですか?『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』等ですか?

―『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』は、音楽だけでしたね。『シャボン玉ホリデー』はもともとミュージシャンが作った番組だったんですよ。渡辺プロダクションの渡辺晋さんはベース弾きですからね。渡辺晋の作った渡辺プロダクションの作った番組なので。ハナ肇とクレージーキャッツもみんなミュージシャンじゃないですか。だから結構ミュージシャンがちょこっと映ったり。その後タモリさんの番組『今夜は最高!~WHAT A FANTASTIC NIGHT!~』とかね。ああいう番組にマインドが受け継がれていくんですけれどね。だから多分ね、よく映っていたという記憶はあります。コントで笑いをとったとかそこまでは覚えていないんですけどね(笑い)。

ここ(家)で作って、それを外で実際お父さんが出られてという両方を見てということですよね。

―それが愉快なんですよ。まあ裏で糸を引いているとまでは言いませんけど、これがこうなってああなるのねっていう構造とかプロセスとかを最初に興味を持ったんですね。大体皆さんは出口の部分しか受け取れないじゃないですか。

最後の成果物とでも言うんですかね。

―ですよね。だから表向きはかっこいいけど「お父さん、家ではパンツ一丁で、お腹ボリボリかきながら、口笛吹いて譜面書いていた」とか、そういうことを全部込みで流れを見てたんですよね。そこは非常に愉快でしたね。

なるほど。面白い気づきだったのかもしれませんね。

―そうですね。

そして、11歳の時くらいからピアノをやるようになって…。

―はい、本格的にですね。

で、作曲も当然その頃から目指していて…。

―そうですね、ああいう風になりたいっていうのは、もう本当にその頃からあったので。

具体的に作曲を作り始めるのはいつ頃からだったのでしょうか。

―これはね、こういう話をするとね、不謹慎だと思う人も多いと思うんだけど。小学校3年の時ね。僕はその年に多分転校をしているんですけど、その年の1学期から新しい学校に入って夏休みが来て、夏休みの宿題で研究発表みたいなのが、作品作ったり…。

自由研究ですね。

―自由研究か!それが、のんびりしていたら何もないままに8月30日くらいになってしまって…(笑い)。それで、ここで何か研究とかしてもバレるだろうと。僕は何となく、その時、思いついたのか腹にあったのかその感覚は忘れたけど、「よし、作曲だ!」と思ったんだよね(笑い)。

そこで「作曲だ!」というのは降りてこないですよね、普通の人は(笑い)。

―そうだよね。で、五線紙、音楽ノートみたいなものの切れ端に、思いつくまま『朝のすずめ』っていうタイトルで。

何か良さそうなタイトルですね(笑い)

―ドシドレソミレミファレミソラソドレミレミレド~♪、だから4小節だね!(笑い)そのメロディーを作ってね、『朝のすずめ』ってそれらしいタイトルをつけて(笑い)。それで、その紙っぺらを持って、「これだ!」と。

そしたらね、この時どっちに転ぶかだよね、「ふざけんなー!」って言われるか。でもね、僕の担任は図工が専門の先生だったんだけど、その先生が、学校が始まって以来誰も見たことがない、5重丸をつけてくれたんだよ(笑い)。クラスの後ろに貼られてね、皆で丸を「これ、どう数えてもこれ5重丸だよな!」って皆で集って。それまで4重丸しか皆見たことがなかったんだけど、5重丸っていうのを初めて見ましてね。

でも別に、それは「いい曲だね!」とか「素晴らしい作品だね!」ということじゃないんですよね。その図工の先生は、今でも文通したりしている人なんだけど、すごくリベラルな考え方の人で、教育のことなんかについては実にいろんなことを常々考えていらっしゃる。公立の小学校の先生なんですけど、そういうマインドをお持ちの方で。

多分ね、こういう奇想天外というか、まあ今でこそね、今だったら作曲してくる子なんか結構いると思いますけどね。

今はもう、パソコンでもできちゃう時代ですからね。

―音源を納品する人もいるかわからないけど(笑い)。その当時はやっぱり、こうあるべき、教育って大人が教えたものを全部子どもが鵜呑みにして、「自由研究ってこういうものだ!」とか、「宿題ってこういう風にやるんだ」、「テストは100点が最高なんだ」とか。それは一つの尺度であって、いろんな尺度があるというようなことを何かそこに僕はズバッと球を投げちゃったようなんだよね、きっとね(笑い)。今思うとそういう評価だったと思うんだ。それで、僕は作曲を「これはいける!」と。

そしたら皆同級生は譜面が読めないから、「宮ちゃん!『朝のすずめ』ってどういう曲なの!?歌って歌って!!」って、「あさ~のすずめだ、あ、こりゃこりゃ!」って(笑い)。僕の後に10人くらい続いて、「あさのすずめだ!」って、「『朝のすずめ』まつり」みたいになっちゃって。

ま、「何か面白いな」って言うか、「皆譜面読めないんだ~」みたいなことも含めてね(笑い)。そこにちょっとした優越感があったり、「この思いつきがナイスだったね!」というような発案の妙みたいな、そういうことがあったり。でも今考えると、決まりきったことを繰り返していくのが教育ではないっていう、そういう教師との無言の会話が5重丸を通して、今は感じられます。

そうですよね。その先生じゃなかったら違ったかもしれないですよね。

―そうですよね、違ったかもしれないです。図工専任の人のクラスだったの。

「自由研究こうあるべき」っていう先生だったら、それにあわせていたかもしれませんし…。

―わからないですよね。いろんな先生がいるでしょうからねー。

リベラルというか、スパンっと受け入れてくれたんですよね。

―そうですね。でも、そこで確かに何の評価もされていなかったら、まあ作曲家になっていなかったことはないと思うんだけど、またちょっと違う道を進んでいたに違いないですよね。

そうですよね。だから、作曲家になろうと思うターニングポイントってまた別になっていたかもしれないですよね。

―そうですね。あと、4年生の時の音楽の授業の話ですけど、この年から音楽専科の先生の授業になる訳です。この先生と僕は今でもやり取りが続いているんですけど、その方もよくできた方でね。音楽室の準備室の鍵をいつも開けておいてくれるんです。僕らが行って遊ぶためにね(笑い)。で、放課後になるとそこに籠って、一緒にビートルズの映画を観に行った子たちとバンドごっこですね。当然エレキはないんだけど、マリンバとかドラとか楽器が山のようにあるじゃないですか。それを勝手にいじって合奏してね。

当時はオープンだったのかな。科学室なんかも普通に入っちゃっていたからね!硫酸なんかの薬品の棚には鍵がかかっていたけれどね(笑い)。

いやー、でも大らかですね。私が小学校の時でもあんまりなかったですね。

―かもしれないですね。この辺は今度ちょっと後で聞いてみますね、わざと開けておいてくれていたのか(笑い)。

現在、当然私共もTVで拝見していて、来月は舞台と様々にご活躍されていると思いますが、これからチャレンジしたい、やってみたいことについて、もしあれば教えていただきたいのですが。

―そうですね。やってみたいことって一口に言っても、考え方ひとつなんですよ、これは。

僕ね、20歳ぐらいになった時に、何となく思いつきでね、いや高校生ぐらいかな、20歳前だね。「3つの夢」みたいなのを描いたんです。ひとつ目は“ディズニー映画の音楽みたいな音楽を作りたい”って。次に“セサミストリートの音楽を作りたい”、“担当したい”。最終のひとつが“劇団四季の仕事をしてみたい”だったかな。そしたら、もう思った次の年くらいに劇団四季の人から本当に電話がかかってくるんだよね!それは、願えば叶うとかそういうことなのか、願いが叶いそうなことを言っていたのかもしれないんですけど。

じゃあディズニーはどうなのかっていうと、劇団四季の音楽監督が東京ディズニーランドの音楽監督と同じ人だったの。それで、「来年浦安にディズニーランドができるから、お前アレンジやれ!一緒にやろう!」って。まだ僕21歳だったけど誘われて。そこでパーク内の小さなショーから大きなショーまで数え切れないほど作るチャンスに恵まれて。その作る過程で、「ディズニースピリット」っていうのをものすごく学んだんです。お客さんの前でもう絶対に内側をさらけ出さないというようなこととか。要するに社員で金髪に染めたり、長髪にしていたりするような人は絶対いないでしょ?今もそうだと思いますけどね。そういう規範もあるんだけど「スピリット」というのはそういうことじゃなくて。ディズニーは「自然」をモットーにエンターテイメントを作る、ということで、「自然」を尊ぶというかね。例えば、雨が降ってきたら、「雨が降ってきて屋根の下に避難している人のためのショーを作ろう」とか、そういう発想をディズニーランドのディレクターたちがしていて。でも、その中のショーの一部に歌詞で、「せっかくのディズニーランドも雨で台無し。でも花は雨を待っていた」とかね。「森は雨が大好き!」とか、そういう歌詞が書かれていて。「あ~!これが!これがディズニースピリットだ!」って。これは「バンビ」と一緒だ。子どもの頃「バンビ」という映画から学んだ何か、それが脈々とここにも生きているなぁと、そう感じて。だって、ゾウが歌ったり、帽子が喋ったり、そういうのがたくさんあるわけじゃない!いわゆる「アニミズム」っていうやつが。「命は全てのものに宿っている」っていうこと抜きにはディズニー映画はおろかディズニーランドも語れないってことに気が付いて。ってことは、僕は、図らずもディズニー映画はやったことがないけど、「ディズニースピリット」をディズニーランドで学んじゃったんですよね。ディズニーの本質を知った時点で目標は達成したも同じなんです。

だから、考え方なんですよ。又、そうこうしていたら、今度はNHKの人から電話がかかってきて、「クラシックで人形劇やりたい」って言って。「あなたがいればできそうだ!」って言われて。それが『クインテット』。なまじセサミストリートの音楽を15秒作りましたっていうよりも、ずっと面白いことを、内側から全部僕は知ることができて、人形操作の人に「こういう風に見えるようにやってくれ」とか、そういう口出しまでさせてもらえたっていうことですよね。

だから、考え方なんですよ。どこを以って叶ったかということなんです。それで、これからやりたいことを具体的にと言われて、全くないわけじゃないんですけどあまりピンとはこない。じゃあ僕の究極の目標はちょっと抽象的だけど、そこにいるお客さん全員が腹を抱えて笑い、何故か全員が涙を流す、そんな音楽会が常にやりたい。でも、それは音楽会か、お芝居のミュージカルかもしれないし、オペラかもしれないし、バレエかもしれないし。だから、抽象的なんだけど、そういうことを夢に描いて、全てにそういうことを思い描きながら取り組んでいるということだけ一貫して言えることです。

だから、まあ来たものは何でも、今からでもオリンピックの開会式でも何でも頼まれればやりますけど(笑い)。残念ながら、それは頼まれてないけど。あえて大きな目標を言うならば、まあ、音楽家がノーベル平和賞を取るような世の中になってほしいという意味を込めて、どうせ取るならノーベル平和賞(笑い)。賞が欲しいとすればそれかな、グラミー賞とかそういうのじゃなくて。

平和賞。

―そうそう。それだったらいいかなって(笑い)。

音楽番組等で拝見させていただいているのですが、そういった「笑わせたい」・「感動させたい」というところが、コンサートの合間のMC等に自然と出てきているんだろうな、と思います。

―そうですね。やっぱり笑った後でなきゃ本当には泣けないですよね。いきなりコンサートでもミュージカルでも見に来ていきなり泣くって何か不自然じゃないですか。何か思わず笑っちゃったような中に、「あぁ!これは!大変なことに僕は笑っていたんだ!」っていう、なんらかの「気付き」があって、気持ちが大きく揺さぶられてこそ、すごく泣いたり感動したりっていうのがあるんだと思いますね。

ありがとうございます。それでは、最後に子どもたちへのメッセージをお願いできますか。

―うーん。なかなかそれは僕からは言いにくいけどね。というのは、子どもこそ自分の師匠だから、子どもには勝てないですよ、やっぱり僕みたいなクリエイターは、子どもには全く敵わないからね。寧ろアドバイスしてほしい、大人に。「こういう馬鹿なことをいつまでやっているんだ!」とか、そういうことは言ってほしい!

ただね、(子どもに)教える方の大人に対しては、昔からある一つの提案をしているんだけど。

ぜひそちらをお伺いしたいです。

―大人に対するメッセージとしてはね、具体的なんだけど、「演劇をやろう」と。「クラスで劇を作ろう」と。これはね、僕が学んできたことなの。

僕の出た学校は和光学園っていう学校です。今は小学校だけですけど、世田谷にかつては中学校があったんですね。そこで、毎年演劇祭というのがあったんです。クラスで一演目。で、2日間で、全部で9クラスしかなかったから、2日間で発表するというのを、毎年秋にやっていたんです。そのひと月は、授業は午前中だけで午後は全部劇の練習で。一応「先生が中心になって作れ」、ということだけ決まっているんだけど。先生もいろんな考えの人がいるから、もう「ロシア演劇がやりたい」っていう人がいたり、「日本の現代劇」とか「おとぎ話をやりたい」っていうのもあったりしたけど。まあ、たまたま僕の担任は演劇が大好きな人だったのね。だから、先生の監督の下に、皆で演目を決め、それぞれが何らかの役目を負うわけです。

オーディションということですか?

―自己申告だったね、まあとりあえず。それで僕は「音響やりたい!」ってことになって、本を読んで作曲をして。で、今と同じような仕事をそこで始めることになるんだけど。何が言いたいかっていうと、普段陰に隠れていた一人の生徒が実はがすごい名優だったり、科学が好きな人は絶対照明を選んだりね、あと絵を描くのが得意な人は舞台背景とか美術とか。で、僕みたいに「やっぱり音楽やりたい!」っていう人がいたり。全員が何かしら発揮できるんですよ。

強みを活かせるということですね。

―活かせますね。皆が多方面から一つのことに向けて協力し合うということなのね、その演劇をやるということはね。それが、最近はどうかわからないけど、一時期全員がかけっこで1等でゴールするっていうような時期があったじゃない。全員に同じお土産を配る的な発想が、それが公平だっていうのがあったじゃない。だけど、全員にとって輝く場所って、ちょっとずつ心のポイントって違うでしょ?本当は全員違うお土産を貰うっていうのが公平なんですよ。そういう発想が、演劇をやっていると必ず出てくるんですよね。

全員が輝くっていうのが実にカッコイイ。しかし輝き方は人それぞれ違う。演劇をやるととにかく教科全部の頭を使わないといけないし、バランス感覚とかは数学だし、国語の読解だし、社会背景だし、科学だ、音楽だ、体育だ、美術だ、って「総合芸術だ」っていうくらいだから、全部必要になってくるんです。音楽をやるのもいいんだけど、僕は演劇の方がすごく効くと思うんですよね。そこで本来のコミュニケーションを知ることになる。元々、演劇っていうのは治療じゃないですか、西洋ではね、精神的な。「何でお前、こんな悪事を働いたんだ!」って、その立場を逆にしてみようっていうのが演劇の始まりだってどこかで読んだけど。そういう相手の気持ちになるとか。「なりなさい」ってね、いくら道徳の時に言われるよりも、実際やってみればいいじゃんっていう意味では、あれはもう万能だと思うのね。どんなヘナチョコでもね、どんなお笑いになっちゃっても、どんなマニアックでも、何でもいいから(笑い)。大人へのこれからのカリキュラムとかシステムとか考えていく人たちには、絶対僕はおすすめしますね。

授業にしろって言っているんじゃないですよ、これ。そういうことじゃなくてね。その授業と授業の間を担当するような催し、フェスティバルをやろうじゃないか、と。

私も学生時代、演劇をやる機会がありましたが、何か演じてみたいっていう時にエネルギーがバーッと湧いてきたり。そういうことはあったかな~と思います。

―「お前、そんなことできるのか!」みたいなね。そうですよね。それで、僕は中学の時に演劇を毎年やって、そこで台本の読み方を何となく。台本を読んでいると音楽が聞こえてくるという経験も、今と全く同じなんですよね。

その後、高校になったら今度は、「人形劇をやりたい!」っていう同級生がいて、そこで人形劇の音楽を作ったり、いつの間にか演出をやっていたりとかして。そうしたら時が経ってNHKの『クインテット』に出演する機会に恵まれたり…何かね、無駄にはならないっていうことです。ああいうちょっと変わった学校で得た経験っていうのは皆さんに知ってほしいし、是非役立ててほしいと思いますね。

―本日はありがとうございました。

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