平成27年度 (2015年) ウィニペグ市姉妹都市提携 45周年記念親善訪問報告書 世田谷区議会 親善訪問団 平成27年度 ウィニペグ市姉妹都市提携 45周年記念親善訪問団 職   氏名    所属 団長  畠山晋一  区議会議員 副団長 平塚敬二  区議会議員 団員  三井みほこ 区議会議員 団員  福田妙美  区議会議員 団員  中村公太朗 区議会議員 団員  青空こうじ 区議会議員 随行  水谷敦   区議会事務局議事担当係長 訪問日程 日程訪問都市訪問先・主な行事 10/24(土)〜25(日) 出発 10/26(月) ウィニペグ◎ウィニペグ市内視察 ・パインフォールズ水力発電所 ・ゼネラルビイング校 ・エンテラリサイクル工場 ・自然環境センター 10/27(火) ウィニペグ◎ウィニペグ市内視察 ・カナダ人権博物館 ・ロイヤルウィニペグバレエ団 ◎ペンビナ学区教育委員会理事との意見交換会 10/28(水) ウィニペグ◎姉妹都市提携45周年再確認調印式典 ・ウィニペグ市議会傍聴 ・ウィニペグ市主催歓迎レセプション ◎ウィニペグ市内視察 ・高齢者向け特定住宅 10/29(木)ウィニペグ◎ウィニペグ市内視察 ・アシニボイン公園 ・インベスターズグループフィールド ・ウェイバリー老人ホーム 10/30(金)ウィニペグ◎ウィニペグ市内視察 ・ブルースDキャンベル農場・食研究センター ・マニトバ州議事堂 ◎マニトバ日本文化協会主催歓迎レセプション 10/31(土)〜11/1(日) 帰国 ウィニペグ市姉妹都市提携45周年記念親善訪問を終えて 団長畠山晋一 私たち親善訪問議員団の一行6名は、ブライアン・ボウマン市長からの招聘を受け、姉妹都市提携45周年再確認調印式典の出席等のために、去る平成27年10月24日から11月1日に至る9日間にわたり、カナダのマニトバ州ウィニペグ市を訪問いたしました。 ウィニペグ市と世田谷区との交流は、昭和35年(1960年)にウィニペグ在留日系人と在日カナダ二世協会の呼びかけで行われた児童生徒の絵画交換から始まりました。その後も両都市の友好関係は着実に発展を続け、昭和45年(1970年)にウィニペグ市議会議場において姉妹都市提携の調印が行われて以降も、文化・教育・スポーツと幅広い分野で交流事業が実施され、今日に至っております。 現地では、ボウマン市長をはじめとする関係者の方々と友好関係を深めるとともに、姉妹都市提携の当時から続く中学生親善教育交流事業に御協力いただいているペンビナ学区教育委員会の方々や、実際に世田谷区の中学生を受け入れてくださっている学校の校長先生などとの意見交換のほか、日頃より世田谷区とウィニペグ市の架け橋となり御尽力いただいているマニトバ日本文化協会の皆様との懇談など、ウィニペグ市にお住まいの方々との対話を重視した交流を行ってまいりました。 交流内容等の詳細は項目ごとに後述いたしますが、今回の訪問は団員各位にとって誠に有意義なものとなりました。訪問の成果は、今後の議会活動を通じて本区の行政に十分反映させて参ります。 ウィニペグ市の概要マニトバ州の州都であるウィニペグ市(人口約66万人、面積約465平方キロメートル)は、北米大陸の中心に位置し、大陸横断鉄道やハイウェイなどの交通の要衝で交易の場として古くから栄え、小麦など穀物の大集散地として知られています。また、ダウンタウンにある商業取引地区にはオフィスビルが立ち並び、近代的な一面とともにヨーロッパ的な落ち着いた雰囲気も兼ね備えた街です。 ウィニペグ市の形成は1873年に遡りますが、その後、行政区の統廃合などを経て、現在の市制が1972年に発足しました。市の権限は法務などを除き、都市計画、都市開発、警察、消防、救急など広範にわたります。 市長は住民により直接公選され、市議会の構成員にもなります。市長の任期は市議会議員と同様に4年間であり、現市長のブライアン・ボウマン氏は2014年10月22日の選挙で初当選しました。 市議会は15人の議員と市長の16人で構成されています。各議員は市内15箇所の区域からそれぞれ選出され、議会の構成員であるとともに、コミュニティ委員会の構成員としての役割を担っています。 ≪ウィニペグ市との主な交流の経過≫ 年月交流内容等 1970.10ウィニペグ市議会議場において姉妹都市提携の調印 1971.8第1回世田谷区中学生親善訪問団がウィニペグ市を訪問(その後2年毎を基本に訪問) 1974.3第1回ウィニペグ市中学生親善訪問団来訪(その後2年毎を基本に訪問) 1978.8民族舞踏合唱団ティルサ・クワイヤーが来訪し、区内で親善公演(5年後にも来訪) 1979.6国際児童年記念展覧会(ウィニペグ市で開催)に世田谷区の中学生の絵画を100点出品 1980.8姉妹都市提携10周年記念親善訪問団がウィニペグ市を訪問 1981.2ウィニペグ市長が来訪 1986.7民族舞踏団ルサルカ・ウクラニアン・ダンスアンサンブルが来訪し、区内で親善公演 1988.2ウィニペグ市長、ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団のプリマが来訪 1988.11ウィニペグ・アマチュア・アイスホッケーチームが来訪 1990.8姉妹都市提携20周年記念親善訪問団がウィニペグ市を訪問、区内の文化団体がフォークロラマ民族祭に参加 1990.12北沢タウンホールにおいて姉妹都市提携20周年記念コンサートを開催 1991.1ウィニペグ市長が来訪、総合運動場において姉妹都市提携20周年記念植樹式を実施 1995.2ウィニペグ市長が来訪 1995.8姉妹都市提携25周年記念親善訪問団がウィニペグ市を訪問 1996.5マニトバ州日系カナダ人文化センター和太鼓団体「日の出太鼓」が来訪 1999.7〜8マニトバ州日系カナダ人文化センター和太鼓団体「日の出太鼓」が来訪し、区民まつりに出演 2000.5ウィニペグ市長が来訪 2000.8姉妹都市提携30周年記念親善訪問団がウィニペグ市を訪問 2004.10ウィニペグ市長が来訪 2005.7ウィニペグ市合唱団ウィニペグ・シンガーズ来訪 2005.7姉妹都市提携35周年記念親善訪問団がウィニペグ市を訪問 2008.11第3回世田谷246ハーフマラソン大会に姉妹都市招待選手として4名来訪 2010.8姉妹都市提携40周年記念親善訪問団がウィニペグ市を訪問 2015.10姉妹都市提携45周年記念親善訪問団がウィニペグ市を訪問 姉妹都市提携45周年記念親善訪問について 1.パイン・フォールズ水力発電所 ウィニペグに到着した翌朝、我々はウィニペグ市郊外の水力発電所を視察するため、バスに乗り込みました。車中、今回の訪問で通訳を引き受けていただいた「マニトバ日本文化協会」(JCAM)の方から、今年は10月末でも雪が降り始めておらず、暖冬となることが予想されているとの話を伺いました。暖冬と言っても真冬には氷点下30℃程度に気温が下がるそうです。このような極寒の地で、冬でも水力発電が機能するのであろうか、現地に到着する前から興味を抱きました。 カナダ国内では、恵まれた水力資源を利用した水力発電が発電量全体の6割程度を占めるそうです。ちなみに、カナダ国内の原子力発電は発電量全体の15%程度を占めるそうですが、ウィニペグ市のあるマニトバ州には原子力発電所は存在しません。 我々は、マニトバ州にある15箇所の水力発電所のうち、1952年に完成したパイン・フォールズ水力発電所をブライアン・フォートニー施設長に案内していただきました。6つのジェネレーターが設置されたこの発電所はウィニペグ川の高低差を利用して発電し、84メガワットの電気出力を誇るそうです。また、今回は訪問できませんでしたが、1920年代に建設されたマニトバ州で最も古い水力発電所は、修理を重ねて未だに現役で稼動しているという話をブライアンさんより伺い、施設におけるメンテナンスの重要性を実感しました。 原子力や火力による発電は、一度、炉を停止すると稼動までに数日を要することから頻繁に炉を停止させることは困難ですが、水力発電はスイッチを入れて5分程度で発電をスタートすることができるため、電力需要に柔軟に対応することが可能との説明を受けました。この柔軟性を活用して、隣国のアメリカ合衆国で電力需要が高まっている時間帯には高価格でアメリカ合衆国に売電し、真夜中などカナダ国内の電力需要が低い時間帯には国内の水力発電を停止させ、アメリカ合衆国の余剰分の電力を低価格で購入するそうです。水力発電はクリーンなエネルギーであるとともに、周辺国との間に送電網が整備されていれば、経済的なエネルギーであることを学びました。 なお、行きの車中で疑問に抱いた真冬の水力発電事情についてですが、我々が視察した水力発電所付近の川は、真冬に厚さ約1.5メートル程度の氷が張るものの、川の水深が11メートル程度あるため、発電には全く影響がないそうです。 2.ゼネラル・ビイング校 パイン・フォールズ水力発電所を視察した後、我々は中学生親善教育交流事業において、45年間にわたって世田谷区の中学生を受け入れていただいているゼネラル・ビイング校を訪問しました。まず、ジュディ・パーニー校長に案内していただいた応接室には、過去の交流事業における記念写真が何枚も飾られており、ゼネラル・ビイング校の生徒と世田谷区の中学生が長きにわたって友情を育んできた歴史を確認することができます。 その後、校内の各教室を拝見させていただきましたが、工学の授業として自転車を解体して再度組み立てる授業のほか、ルービックキューブを揃えるプログラミングを施したロボットを作成する授業など、「ものづくり」に関する個性的なカリキュラムが存在することには驚かされました。 また、校内の保育ルームでは就学前教育とともに、そのプレ教育まで行われており、幼稚園児から中学生までの子どもたちが元気に授業を受けている様子を拝見することができました。授業中ということで短時間の視察になりましたが、小規模校ならではのアットホームな雰囲気や、ジュディ校長のとても穏やかな人柄に接し、「この学校であれば、世田谷区の中学生を安心して預けることができる。」と確信を持つことができました。 3.エンテラ・リサイクル工場 ゼネラル・ビイング校を後にした我々議員団は、エンテラ・リサイクル工場を視察いたしました。施設到着後、ランディ・パーク土壌処理部長よりウィニペグ市におけるごみ事情について説明していただきました。ランディさんの説明によると、ウィニペグ市では1990年代からごみの量が増え始め、1997年に20万トンであったごみの収集量が2005年には25万トンを超えるほど、急増したそうです。この事態に危機感を持ったウィニペグ市は、ごみ減量のためにリサイクル事業の推進に力を注ぎはじめました。 まず、各家庭にコンテナボックスを配付し、週に1回、リサイクル物品を収集することとしました。コンテナボックスの形状を工夫し、作業員が収集車から降りることなくロボットアームの操作のみで収集することを可能とし、効率性を重視しました。 また、各家庭の庭を手入れした際の落ち葉、芝、木の枝などを月に2回収集し、ごみとして燃やすのではなく土に返す事業を始めたそうです。広大な土地を持つカナダならではのリサイクル事業であると言えます。 これらの事業を推進した結果、ごみの収集量は順調に減り続け、2014年には17.5万トンまで減らすことができたそうです。 事業概要の説明後、リサイクル工場における実際の作業現場を拝見させていただきました。作業工程を見ていると、機械で分別しきれなかった資源を複数の人間で分別している姿が目に入りました。 日本のように資源を区民に分別してもらってから回収すれば、より効率的な作業が可能となるのではないかと質問したところ、リサイクル量を増やすには、市民に負担がかからないようにする必要があるため、回収時の分別は求めていないとの回答がありました。 様々な人種が共に暮らすカナダならではの事情も背景にあるようです。 今後、ウィニペグ市の方々が世田谷区にお越しになる際には、資源分別回収を初めとした世田谷区のリサイクル事業を、是非とも紹介したいと思いました。 4.自然環境センター エンテラ・リサイクル工場の視察後、ブライアン・ボウマン市長との対談のため、フォート・ホワイト・アライブという自然環境センターに場所を移しました。 640エーカー(約259万u)の土地を有する自然環境センターは、1973年に設立され、敷地内には森、湖、湿原などがあり、バイソンや豚などの動物のほか、200種類を超える野鳥が生息しています。自然と向き合って生きていくことを学ぶには、非常に良い環境であると思いました。 ボウマン市長との挨拶を終えた後、自然環境センターのニールさんより、カナダグース(雁)の生態について説明を受けました。自然環境センターには5〜6千羽のグースがアメリカ合衆国から飛来します。また、グースは非常に家族を大切にする鳥で、夫婦のどちらかが怪我をして瀕死の状態になると、離れることなく死ぬまで一緒に過ごすそうです。ニールさんはグースに関するこれらの情報について映像を用いながら、クイズ形式で分かりやすく説明してくださいました。 夕日が沈みかけた頃、ボウマン市長、ニールさんとともに湖畔へ移動し、グースが湖に帰ってくる様子を見学しました。湖に反射する夕日と、広い空を埋め尽くすグースの群れが織り成す光景は非常に幻想的でした。その後、我々議員団はボウマン市長らと夕食を共にしながら、ウィニペグ市と世田谷区の交流の歴史や今後の交流のあり方等について語り合いました。 5.カナダ人権博物館 10月27日の午前、我々はカナダ人権博物館を訪ねました。1967年に設立された当博物館は、首都オタワ以外にある唯一の国立博物館、また世界で唯一、人権に焦点を当てた博物館であることから、ウィニペグ市民が誇りに思っている施設だそうです。 我々は、ガイドのアンバーさんの案内のもと、昨年、リニューアルオープンした博物館を見学しました。建物全体が人権をコンセプトとした設計となっており、最初に「ようこその壁」と呼ばれている大きな白い壁が我々を待ち受けます。 その壁には、36の言語による「ようこそ」という意味の言葉が次々に映し出されます。目を凝らして見ていると、日本語の「ようこそ」も映し出されました。 「ようこその壁」は、カナダの公用語である英語及びフランス語を話さない人々が訪れた際に、自分の慣れ親しんだ言語を目に触れていただき、言語の壁や差別の壁を心から取り払うことを目的に設置されたと伺いました。 また、この博物館には8000年前のカナダの先住民の足跡が展示されるなど、先住民に関する展示物が充実しており、カナダの土地に古くから住む人々に対する敬意をカナダ国民全体が持っていることが分かります。 人権確立に貢献した多くの偉人を年代別に解説しているブースには、残念ながら日本人は含まれておりませんでしたが、キャサリン・スウィッツァーさんという女性の逸話が印象に残りました。彼女は1967年当時、男性のみに参加資格のあったボストンマラソンに自分のイニシャルを用いてエントリーしました。レース開始後、女性が参加していることに気付いた主催者が彼女のレース続行を阻止しようとしましたが、周囲のランナーや観衆の応援もあり、4時間20分で完走することができました。その5年後のボストンマラソンでようやく女性の参加を正式に認めることとなったそうですが、今では当たり前であるマラソン競技の女性参加が、つい半世紀前までは認められていなかったことを初めて知りました。 「カナディアン・ジャーニー」という大きい展示スペースには、75もの人権に関する史実が展示されています。そのうちの1つに、第二次世界大戦中に日系カナダ人を収容した小屋が再現されていました。そのブースには、敵性外国人とみなされた日系人が戦時中に家や漁船などの財産を没収された上、強制的に移住させられたエピソードが説明されています。1988年にカナダ政府は、日系カナダ人を苦しめた過去の不正を認め、日系カナダ人協会とのリドレス合意書調印に至りました。戦時中の強制収容をはじめ、戦後に日系カナダ人の復権に向けて奔走された皆様の苦難の歴史について理解を深める機会となりました。なお、日系カナダ人協会の代表として、リドレス合意書に調印をした方が、今回の訪問で大変お世話になった、マニトバ日本文化協会の会長であるアート三木さんです。 館内ではその他、第二次世界大戦中のナチスがユダヤ人に対して組織的に行った大量虐殺に関する展示物等を拝見し、世界各国で行われてきた迫害や差別について、過去を忘れず現代に活かす必要があることを改めて認識するとともに、全ての人間は生まれながらにして平等であるとの理念を深く胸に刻み込みました。 6.ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団 カナダ人権博物館を後にした我々議員団は、ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団を訪問いたしました。ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団は、1939年に前身となるウィニペグ・バレエ・クラブとして設立され、1941年にウィニペグ・バレエ団に改称しました。1949年にトロントで開催されたバレエフェスティバルでのパフォーマンスが高く評価されるなどバレエ団の成果が認められ、1953年にエリザベス女王2世より「ロイヤル」の称号が授与されました。創立以来、世界に名立たるダンサーを輩出する一方、諸外国から優秀なダンサーを迎え入れ、北米で最も歴史のあるバレエ団として、未だなお、その名声を維持しています。 現在、バレエ団には4人の日本人プロダンサーが所属しているほか、6人の日本人研修生が在籍しており、我々は、その内の3人の日本人研修生にお会いすることができました。 施設内には6つのスタジオがあり、日々、ダンサーが自らのバレエを研鑽しています。我々が訪れた日も若者たちがレッスンを受けており、研修生による素晴らしい演技を拝見いたしました。中でも本番と同様の衣装を身にまとった、女性の日本人研修生と男性の中国人研修生のペアによる演技は、しなやかな動作と力強い動作の対比を間近で拝見することができ、圧巻でした。 研修生の日常生活を伺ったところ、バレエだけでなく学業にも力を入れており、小学校6年生から中学校2年生の研修生は日中に学校へ通い、午後2時45分から午後6時45分までレッスンを受け、中学校3年生から高校3年生の研修生は、午前9時から正午までレッスンを受けた後に学校へ通い、放課後に再びレッスンを受けるそうです。 また、ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団では、公演に使用するほとんどの衣装を布の染色も含めて、全て自分たちで作成しています。職人たちがドレスを縫っている工房を見学させていただいたのですが、体格の異なるダンサーへの急なキャスティング変更にも対応可能な衣装とするため、ボタンの位置を工夫するなど、細かい気遣いが感じられる作業を行っていました。 日本から遠く離れたウィニペグの地で、切磋琢磨している日本人研修性にエールを送るとともに、区民会館を建て替えた際には、是非ともロイヤル・ウィニペグ・バレエ団を招待し、素晴らしい演技を披露していただきたいと思いました。 7.ペンビナ学区教育委員会 10月27日の夜は、午後7時からペンビナ学区教育委員会のテッド教育長をはじめ、教育委員会理事の方々や校長先生たち12名との、中学生親善教育交流事業に関する意見交換会に参加いたしました。12名の参加者の中には、当事業の引率者として世田谷区を訪問したことのある方や、自分の子どもを世田谷区に訪問させたことのある方もいらっしゃいました。自己紹介の後、現在16名ずつの生徒を相互派遣している中学生親善教育交流事業の派遣人数増加の可能性について話し合いました。 派遣人数の増に向けての課題として浮き彫りになったことは、第一にウィニペグ市側の応募人数が減少傾向にあることです。世田谷区は全区立中学校に対して派遣生徒を募集し、100人近くの応募がある一方、ウィニペグ市は市内の全学校に募集するのではなく、基本的には前日に我々が訪問したゼネラル・ビイング校のみで募集しているとのことです。また最近では、ゼネラル・ビイング校のみで16名を揃えることが困難となり、近隣の学校においても募集するようにしていると伺いました。ウィニペグ市の学校が世田谷区の生徒を受け入れることにより、学校内の全生徒が他文化を肌で感じることができるなどの効果は認められるものの、世田谷区の生徒用の特別な英語の授業や、その他の特別なプログラムを実施する必要があり、現時点では、そこまでの体制が築かれていないため、直ちに受け入れ学校数を増やすことは難しいとのことです。 第二の課題は、世田谷区側では区から補助金が出るため、各家庭の自己負担額は10万円に抑えられていますが、ウィニペグ側は行政からの補助制度はなく、派遣費用の全額が自己負担となっている点です(引率する教員の旅費も16人の保護者が分割負担している)。世田谷区の考え方と異なり、「一義的には当事業に参加した生徒個人が利益を得るため、その費用は生徒個人(保護者)が負担することは当たり前である」との考えのもと、補助事業にはならないそうです。 我々議員団からは、今後、生徒を選考する時期を調整することで、応募状況や男女比などの情報を適宜共有し、1人でも派遣人数を増やせるよう協力し合うことを提案させていただきました。また、今後もウィニペグ市への訪問等を通じ、今回のような有意義な会談を継続的に行うことを確認しました。 意見交換会終了後、ご用意いただいたコーヒーを飲みながら各々のグループで懇談しましたが、終了予定時刻の9時を大幅に過ぎても話は尽きませんでした。教育に対する熱い思いは万国共通のものだと実感しました。各自の業務を終えてから夜間にお集まりいただき、忌憚のない意見交換会にご参加いただいた教育委員会関係者の皆様に、この場を借りてお礼申し上げます。 8.姉妹都市提携45周年再確認調印式典 雪まじりの雨が降る10月28日の朝、我々議員団は、姉妹都市提携45周年再確認調印式典に出席するため、ウィニペグ市役所に向かいました。 当日はウィニペグ市議会の開催日であったことから、式典前に市議会を傍聴させていただいていたところ、議長の開会宣言の後、1人の市議会議員が起立して歌を歌い始めました。ウィニペグ市議会では、当番の議員が会議の冒頭に口上を述べる慣習があり、口上の一種として、その議員は歌を歌ったそうです。所が変われば、文化・しきたりが大きく変わるものだと、改めて認識させられた出来事でした。 議場において公共事業に関する議案等を審議した後、市議会は昼休憩に入り、我々議員団は、市長室前の式典会場に移動しました。 ノーリー元市長をはじめ、地元の市民の方々が立ち会う中、式典はマイク・パグタカン副市長の司会により進められ、両国の国歌斉唱の後、ブライアン・ボウマン市長と保坂区長との間で「姉妹都市提携再確認宣言書」への署名が行われました。 戦後70年という節目の年に姉妹都市提携45周年を迎え、戦時中に日系カナダ人の方々が受けた苦難と、市民権の獲得に向け奮闘した歴史に思いを馳せると同時に、その方々の支えにより今日の両都市の交流があることを思い起こし、感慨深いものを感じました。 引き続き、ボウマン市長、保坂区長、上島議長より、順次ご挨拶をいただいた後、議員団を代表して畠山団長から議員団の紹介、並びに、華やかな式典への御招待に対し、感謝の辞を述べさせていただきました。記念品の贈呈の後、パグタカン副市長の結びの言葉で式典は無事に終了し、ウィニペグ市主催による歓迎レセプションに舞台が移りました。我々議員団は、ウィニペグ市議会議員の方々とテーブルを囲み、友好関係の末永い存続を誓い合いました。 9.高齢者向け特定住宅 姉妹都市提携45周年再確認調印式典の後、リオンズ・ハウジング・センターという高齢者向け特定住宅に移動し、ウィニペグ市における高齢者福祉事業について視察いたしました。 まず、NPOの職員の方々から伺った事業概要で一番ショックを受けたのは、高齢者に対する虐待が社会問題となっている話です。カナダでは1980年代に児童虐待が顕著になり始め、その後パートナーに対する家庭内暴力や高齢者に対する虐待が目立ち始めました。高齢者に対する虐待には暴力のほか、ドラッグの購入資金に充てるために金品や家を家族が取り上げる行為も含まれているそうです。若い世代において、敬老の概念が希薄化していることが原因の一つだと分析していました。高齢者を敬う慣習がある日本においても、介護疲れ等による高齢者虐待が後を絶たない状況です。両国における高齢者虐待の原因は異なる点が多いものの、多年にわたり社会に尽くした高齢者に対する尊敬の念を我々は忘れてはいけないものだと、改めて考えさせられました。 また最近では、ホーダー(hoarder)と呼ばれる「溜め込み症候群」の高齢者が増えているそうです。そのような方に対しては、ソーシャルワーカーが家の片付けの手伝いや、セラピーに付き添うサービスを行っています。いわゆる「ごみ屋敷」問題が顕著になっている世田谷区においても、課題解決のためには、保健医療福祉関係機関や地域活動団体との協力が不可欠であると強く実感しました。 続いて、エクササイズを通じて健康保持を目指すNPO及び、高齢者配食サービスを行っている会社の担当者から、それぞれ事業概要を伺いました。両者とも多くのボランティアに支えられて、きめ細かいサービスを実施しているそうです。 事業概要の説明後、高齢者向け特定住宅内を案内していただきました。この施設には高齢者(平均85歳〜95歳)の他、ウィニペグ大学の学生たちが入居しています。大学生と一緒に暮らし、高齢者が若者とコミュニケーションを取ることで、生活にアクセントを設けることが狙いだそうです。 ウィニペグ市内に10施設ある高齢者住宅のうち、古い施設は4人部屋となっていますが、当施設は比較的に新しいため、個室がメインとなっています。施設内には多目的室、ラウンジ、美容室など、入居者が快適に過ごすためのスペースが随所に見受けられ、各階のエレベーターホールには職員手作りの「イベント予定表」が飾られているなど、ホスピタリティの高さを感じました。現在ウィニペグ市では、1年足らずの待機期間でこのような高齢者施設に入れますが、10年後には高齢者率が大幅に高まるため、高齢者施設の不足が懸念されているそうです。ウィニペグ市では世田谷区と異なり建設用地不足に悩むことはないでしょうから、高齢社会の到来に向けて高齢者施設を増設するのか、もしくは地域包括ケアシステムのような仕組みを構築するのか、ウィニペグ市の今後の高齢者福祉政策の分岐点が近づいています。ウィニペグ市と比べて高齢化が先行している世田谷区においては、ウィニペグ市の模範となる高齢者施策を展開する必要があると考えさせられました。 10.アシニボイン公園 10月29日の午前、我々は広大な敷地を誇るアシニボイン公園を訪ね、まず、1年前に改修された動物園を案内していただきました。動物園ではオオカミ、トナカイ、バイソンなど主に北米に生息する動物を飼育していますが、遠近法を利用して同じ地域に生息する動物をひとまとめに見比べることが可能であったり、檻や柵などの遮蔽物を使用せずに動物を直接、鑑賞する手法を用いたりと、展示方法が非常に工夫されていました。 また、この動物園の一番の魅力は自然に近い環境でホッキョクグマを観察できる点です。プールの下からホッキョクグマが泳ぐ様子も見ることができ、そこでは大人も子どもも歓声を上げていました。 また、動物園内には、ウィニペグより更に北に位置するハドソン湾岸付近で保護されたホッキョクグマを収容するための保護・厚生センターが併設されているほか、学校授業用の教室も準備されています。その教室では動物園スタッフが生徒・児童たちにホッキョクグマをはじめとする北米に生息する動物の生態や、地球温暖化が動物達に与える影響などについて、レクチャーをするそうです。日本の動物園でも環境学習として同様の取り組みを進めるべきではないかと考えさせられました。 動物園を出た後、イングリッシュ・ガーデンの散策を経て、「くまのプーさん」のギャラリーに立ち寄りました。「くまのプーさん」は、カナダ人の中尉が第一次世界大戦中にイギリスに連れて行った熊(故郷のウィニペグを懐かしんで「ウィニー」と名付けた。)がモデルとなっているそうです。ギャラリー内には、貴重な原画とともに、個人コレクターの方から寄贈された本などが展示されていました。 なお、世界中の多くの人が知っている「くまのプーさん」をウィニペグ市の観光資源としてもっとPRしたら良いのではないかと提案しましたが、著作権関連の課題があり実現は難しいとのことでした。 続いて、公園内の「メイヤーズ・グローブ(市長の木立)」と呼ばれている場所を案内していただきました。この場所は、ウィニペグ市にとって特別なことがあった場合に植樹をする場所になっていましたが、カビ等の病害により樹木が壊滅してしまったそうです。10年前、並びに20年前に親善訪問団が行った記念植樹も、残念ながら存在していませんでした。これまでウィニペグ市とは、文化や教育部門における交流がメインでしたが、今後は、日本の造園技術の伝承など、造園分野での交流も可能ではないかと感じました。 また、広大なアシニボイン公園の維持管理費には、地元企業や個人からの多大な寄附金が充てられているそうです。カナダに根付いている寄附文化の表れです。世田谷区においても公園や美術館などの維持管理には多額の費用がかかっていることを鑑み、寄附文化の醸成に向け、一層の努力が必要であると思いました。 11.インベスターズ・グループ・フィールド アシニボイン公園を後にした我々議員団は、プロアメリカンフットボール(CFL)のチーム、「ブルー・ボンバーズ」、及びマニトバ州立大学のアメフトチーム、「バイソンズ」のホームスタジアムであるインベスターズ・グループ・フィールド(収容人数3万6千人)を視察しました。5年前に完成したスタジアムは、観客の歓声が外に逃げないように屋根の形状を工夫してデザインし、北米で最も臨場感のあるスタジアムと言われているそうです。警備責任者であるキースさんの案内で、企業が年間契約するボックス型の観客席や最新の設備が揃っているメディアルーム、警備室などを拝見しました。警備室にはスタジアム内にある75台もの防犯カメラから映し出されるモニターが設置されていました。高倍率のズーム機能を持つ防犯カメラを実際に操作していただきましたが、観客席一人ひとりの表情がはっきりと分かるくらい高性能であり、防犯に威力を発揮しているとのことです。 続いて、フィールドを案内していただきました。衝撃の吸収や水捌けを考慮し、人工芝の下には2万7千個分のタイヤを砕いたゴムチップが敷き詰められているそうです。開催を間近に控えているグレイカップ(CFL優勝決定戦)用にペイントが施されているにもかかわらず実際に歩かせていただきましたが、天然の芝生と遜色ない素晴らしいフィールドでした。 フィールドから記者会見ルームに移動すると、「ブルー・ボンバーズ」のワシントン選手ら3名の選手がトレーニングの手を休めて、我々に会いに来てくれました。プロ選手の体は大きくがっしりしていて、特に手の大きさには本当に驚きました。 また、このスタジアムは、FIFA女子ワールドカップ2015において、なでしこジャパンがエクアドルを1対0で下し、決勝トーナメント進出を決めた試合会場でもあります。試合当日は、マニトバ日本文化協会の方もこぞって応援に来られたそうです。なお、日本代表戦の時には、日本の国旗を模してロッカールーム内を赤と白にペイントして迎えていただいたとのエピソードを伺いました。2020年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会では、世田谷区はアメリカチームに公式練習場を提供することから、選手達が気持ちよく試合に臨んでいただけるように万全の準備を進めるとともに、馬術競技の会場である馬事公苑を訪れる各国の皆様に対し、おもてなしの心を持って歓迎すべきだと強く実感いたしました。 12.ウェイバリー老人ホーム インベスターズ・グループ・フィールドの視察を終えた我々は、次にウェイバリー老人ホームを訪問いたしました。1999年に設立されたこの老人ホームは、幹線道路に面しているにも関らず、樹木や池に囲まれていることもあり、非常に落ち着いた雰囲気に包まれています。また、木材やレンガなどの天然素材をふんだんに使用した建物は温もりを感じさせ、利用者の方々は温厚な笑顔をもたらしています。広い敷地内は自然が多く散策路も設けられており、大変良好な居住環境です。 建物内は、認知症の利用者が暮らすエリアと、自活可能な利用者が暮らすエリアの2つに別れています。それぞれの利用料金は、月額25万円から37万円程度と比較的高額なこともあり、持ち家を売却して得た資金を活用して入居する方が多く、60歳代から御夫婦で入居されている方もいらっしゃるそうです。また、マニトバ州住宅補助事業を活用したコテージスタイルの住宅も提供していると伺いました。 この老人ホームでは、各階にコミュニティエリアを設けたり、参加型のイベントを定期的に開催することで利用者の孤立を防いでいました。また、利用者の体調が急変した場合でも、経験豊かなスタッフが24時間常駐しているため、利用者の家族からも信頼されているとのことです。 老人ホーム内を案内していただいた後、食堂にて利用者の方々と歓談する機会を設けていただきました。利用者の方々は皆さん穏やかで、「ここで暮らせることが幸せです。」と笑顔で話される姿が印象的でした。 13.ブルースDキャンベル農場・食研究センター 10月30日の午前はウィニペグ市郊外に足を伸ばし、ブルースDキャンベル農場・食研究センターを訪問しました。この日の朝は、一段と冷え込みましたが、晴れ渡る美しい青空と澄んだ空気が寒さを忘れさせてくれました。 当センターは、マニトバ大学農学部の研究所として4年前に設立されました。設立にあたっては、多大なる寄附金が集まったそうです。当センターでは、農業技術、畜産技術、温室効果などの研究の他、小学校3年生から中学校3年生を対象とする社会科見学の場として、農業(小麦・大麦)、畜産業(牛、豚)などのマニトバ州における主要産業の実情や、食べ物の大切さなどを教えています。 センター内にはトラクターの運転シミュレーション機の設置のほか、細菌の特徴をクイズ形式で展示するなど、小学生でも楽しく学べるさまざまな工夫を随所に見ることができました。また、「マニトバ州の良い土・良い水からできた良い穀物を食べた良い牛から搾る良い乳は、安全で美味しいアイスクリームになる。」というローテーションを例に挙げた説明は、食育の一環として世田谷区の子どもたちにも聞いてもらいたいフレーズとして、強く印象に残りました。続いて我々は、トラクターに牽引された客車に乗り、広大で牧歌的な風景が広がる中、牛舎へ移動しました。牛舎内には数十頭の乳牛が飼育されていましたが、胃の内側が見えるように胴体部分に窓を付けた牛を見たときには驚かされました。飼料の消化具合を可視化し、飼料改良の研究に活用するための装置だそうです。当センターの視察の最後に、マニトバ大学農学部が作っているアイスクリームを試食させていただき、先ほどの「安全な食は、安全な土から始まる」ことをおなかの底から実感しました。食の環境を守り、後世へ伝えることの大切さは、カナダ国内だけのことではありません。その取り組みを実践している当センターの仕組みは、世田谷区においても参考にすべき点が多かったと感服いたしました。 なお、試食させていただいたアイスクリームは量産体制が築かれていないため、市場には出回っておらず、現在、産学協働により流通の可能性を模索しているとのことです。 14.マニトバ州議事堂 ブルースDキャンベル農場・食研究センターを後にした我々は、マニトバ州議事堂を訪問いたしました。マニトバ州の州都ウィニペグに威風堂々とそびえるマニトバ州議事堂は1920年に完成しました。外部から議事堂を見上げると「ゴールデン・ボーイ」と呼ばれている、松明(たいまつ)を掲げた金色の少年の像が確認できます。マニトバの未来が明るく発展することを願って設置されたそうです。 建物の中に一歩足を踏み入れると、ホールの左右に存在する巨大な2頭のバイソン像に迎えられ、その迫力に圧倒されました。2頭のバイソン像の間に連なる、大理石でできた39段の大階段(13×3=39段は、神聖なる数字を意味するそうです。)を昇ると議場前のホールが広がります。ホールの中心に位置する円形の吹き抜け部分から1階のフロアを見下ろすと、1階の床に描かれている黒い星模様が吹き抜け部分のどの位置から見ても自分の近くに位置するように見える仕掛けとなっています。幾何学的な仕掛けの成せる技としか思えない不思議な感覚に陥りました。 続いて議場を案内していただきました。世田谷区議会同様、青色を基調とした議場は、ギリシア神話に出てくる神様の彫刻や絵画が随所に配置されており、荘厳かつ重厚な雰囲気を醸し出しています。議会開催中には政権与党である新民主党と、野党である進歩保守党との間で活発な議論が繰り広げられるそうです。 また、畠山団長においては保坂区長及び上島議長とともに、マニトバ州内務省のフレッド・メイヤー副大臣を表敬訪問いたしました。フレッド・メイヤー副大臣からは、「ウィニペグ市と世田谷区の中学生親善教育交流事業の更なる充実に向けバックアップする」旨の非常に心強いお言葉をいただくことができました。 15.マニトバ日本文化協会 10月30日の夜は、マニトバ日本文化協会(JCAM)主催の歓迎会に出席するため、マニトバ日本文化センターを訪れました。JCAMの皆様には、周年記念親善訪問におけるウィニペグ市との受入準備の調整や訪問中の通訳をはじめ、中学生親善教育交流事業のサポートなど、日頃より多大なる御協力をいただいております。 会場には、35年前に故大場啓二元区長から贈られた和太鼓のほか、日本文化を紹介する日本人形、飾り羽子板などが飾られていました。また、当日は剣道愛好家による日本剣道形の練習も行われており、マニトバ日本文化センターの建設当初から長きにわたり、日本文化をウィニペグ市の方々に伝える役割を果たしてきたことが分かります。 歓迎会には、過去に世田谷区を訪れたことのあるウィニペグ市民の方々も参加していただき、中学生親善教育交流事業の同窓生代表としてヴォークス・グラントさんから御挨拶をいただきました。ヴォークスさんは昭和56年に世田谷を訪れ、訪問期間中は奥沢中学校に通ったそうです。世田谷のホストファミリーがヴォークスさんのことを家族同様に接してくれたおかげで、言語は異なるが人間を愛する心はカナダ人も日本人も変わりはないことを強く実感したとおっしゃっていました。また、交流事業に参加して日本を訪れたことがきっかけで、浮世絵をはじめとした日本の芸術、アニメなどのサブカルチャー、寿司やすき焼きなどの日本料理が大好きになったそうです。6年前には御夫婦で東京を訪れ、ホストファミリーと旧交を温めたエピソードを伺い、交流事業の裾野の広さを再認識いたしました。 その後、ライバック純子さん達による琴の演奏のほか、巻きずしやてんぷら、酢の物など手作りの和食を御用意いただくなど、心温まる歓待を受けました。また、歓迎会の最後に参加者の皆様と輪になって手を繋ぎ、新世田谷音頭を一緒に踊った思い出は、この先も忘れることはないと思います。 昨今のICT技術の向上に伴い、他国にお住まいの方とも容易に連絡を取り合える便利な世の中になりましたが、人と人との交流は、相手の顔を見て直接、お話しすることが何よりも重要であると思います。この度、JCAMの皆様と直接お話し、また、お礼を申し上げる機会を設けていただいたことに感謝するとともに、ウィニペグ市との姉妹都市交流事業の更なる充実に向け、JCAMとの連携強化の必要性を強く実感いたしました。 編集後記 私たち親善訪問議員団がウィニペグで宿泊したホテルの裏手に、日本庭園がありました。この日本庭園はウィニペグ市と世田谷区の友好の絆が末永く続くことを願い、姉妹都市提携を結んだ4年後の1974年(昭和49年)に整備されたものです。当時は平原の中に造成されたそうですが、今では街が発展し、広い道路と高いビルに囲まれ、ダウンタウンの喧騒を一時忘れさせてくれるスポットとしてウィニペグ市民に親しまれています。 帰国後に日本庭園造成の経緯について調べたところ、ウィニペグ市から「日本庭園を造りたいので協力してほしい」との要請を受け、区内の造園技師が北海道旭川市の庭園を参考に計画設計書を作成し、ウィニペグ市が造成したものであることが分かりました。開園の際には、世田谷区から五重塔と石灯籠を寄贈したそうです。 なぜ、当時の造園技師は旭川市の庭園を参考にしたのでしょうか。その理由は極寒の地ウィニペグにおいても生育する樹木を選別するためと伺いました。また、世田谷区が寄贈した石灯籠については、何度もテストを繰り返して内部に含まれている水分が凍結しても割れにくい石を選別したそうです。 姉妹都市提携当時から「相手を思いやる心」を大切に育んできたからこそ、45年もの間、ウィニペグ市と世田谷区の友好関係が続いているのだと再認識いたしました。また、私たちは「相手を思いやる心」を今後も忘れることなく、ウィニペグ市との交流をより一層深め、両都市の更なる発展に向けて邁進することを心に誓いました。