喜多見地区ミニコミ紙「のがわ」 発行号、第100号 発行日、2022年3月発行 発行者、編集委員会 事務局、喜多見まちづくりセンター、03-3417-3401 管内データー 2022年2月1日現在 人口32868人、前号比13人減 男16277人、女16591人 世帯数15638世帯、前号比35世帯増 古着・古布回収は5月15日(日曜日)の予定です。 ご協力ありがとうございました。 赤十字活動資金募集676310円 共同募金(赤い羽根)519670円 秋の古着・古布リサイクル回収量は、12510sでした。 1面 100号記念、喜多見地区今昔物語 地域の皆さまには日頃より温かく見守っていただきありがとうございます。 今号の記念号では、私たちの住むまち「喜多見地区」の(主に)昭和時代へとタイムスリップしてみました。 セピア色の写真の中に、豊かな自然と共に営まれてきた人々の暮らしを、想像していただければ幸いです。 掲載した写真の説明です。 1955(昭和30)年3月 結婚式の後、姑に付き添われてご近所に顔見せ回りをする花嫁。 鎌田4丁目の農道。遠方に見える家は高橋是清の元別荘。その後ろの木々が茂る丘が岡本。 5年後、自宅の前の田んぼに仙川が掘られ、毎年悩まされた水害から解放されたという。 その翌年砧小学校の分校として砧南小学校が建てられた。 1957(昭和32)年頃の喜多見駅。当時人気映画の撮影が、この桜の木の下で行われたとか。 玉電・砧線終点「砧本村駅」。後ろに見えるのは「わかもと製薬」の工場。 現在は駒澤大学玉川キャンパス。 野鳥の宝庫、野川は2014(平成26)年「関東・水と緑のネットワーク拠点百選」に選ばれた。 2面と3面 掲載した写真の説明です。 1、喜多見駅界隈で1957(昭和32)年撮影 2、1972(昭和47)年の喜多見8丁目、中之橋から野川を望む。右側の成城にはまだ住宅が少なく、向こうに小田急線の鉄橋が見える。 3、砧小で1959(昭和34)年、松山をバックに本校と分校の生徒が一緒に小運動会。分校とは現砧南小。 4、殿山横穴墓群で2015(平成27)年、野川と東名の交差する「殿山」と呼ばれる辺りの外環道建設現場から17基の横穴墓が発見された。これは古墳時代後期(7世紀)のものと見られる。 横穴墓は一部保存されたが、他は取り壊され現在みることはできません。 5、創立60周年を迎えた砧南小。1963(昭和38)年の空撮写真。 鎌田の田園風景。手前には用水路が見える。   6、野川水道橋で、まっすぐなこの道は「水道のみち」。 1923(大正12)年多摩川の水を当時の豊玉郡渋谷町(現渋谷区)へと送るためにつくられた町営水道の名残だ。 1960(昭和35)年野川の改修により、これまで川底を通っていた水道管を、川の上を橋で渡すことになった。 写真はその旧水道橋のレリーフ。水道管は2006年再び川底に埋設された。 7、玉電・砧線、1924(大正13)年3月に開通。砧線は二子玉川園から砧本村間2.2kmを結び、1969(昭和44)年5月まで活躍した。 関東大震災後、もともとは復興が進む都心に多摩川の砂利を運ぶためにできたという。 客車に砂利を積んだ貨車が連結して走っていたことから「ジャリ電」とあだ名がついた。写真右は伊勢宮河原駅跡1969年撮影。(現在の三角公園) 8、喜多見小、1972(昭和47)年開校から1979(昭和54)年まで、近隣農家さんの協力のもと(教材田協力会)、児童が授業で米作り体験をしていた。 写真は脱穀の様子。今年度(令和3年)で開校50周年を迎えた。 1965(昭和40)年秋、上はボートで遊ぶ親子。下は多摩川で釣り遊び。 8、喜多見3丁目で喜多見小付近、1985(昭和60)年頃撮影。 江戸時代にはすでに世田谷でも執り行われていたという賽ノ神。 昭和初期の喜多見では、村中の子どもたちが各家の正月飾りなどを集めて回り、大きな正月行事だったようだ。 昭和40年代中頃の田植えの風景。この頃から土地の開発が進み、水質が変わってしまったことなどもあり、稲作から畑作へと順次移行していった。 1956(昭和31)年 多摩川河畔。後ろは小田急線か。 協力と写真提供、敬称略、順不同 故初見弘(元NHKアナウンサー) 大勝庵玉電と郷土の歴史館 世田谷区教育委員会学芸研究員今田洋行 他、多数の皆さん お知らせ 今号で掲載できなかった写真などは、喜多見まちづくりセンターに展示いたします。 展示場所は活動フロアー前廊下 展示期間は令和4年4月末まで ぜひご覧ください。 4面 寄稿 わが故里(そして砧小・喜多見小あれこれ)渡会久子 古墳群があり「朧月夜」の歌詞そのままの地に、砧小学校は明治35年創立、平成14年に百周年を迎えた。 ガード門、松山、百年桜の学校は、昭和20年5月の空襲も免れ、平和な令和時代を迎えている。 砧小の学区は広く、今の明正小(昭和28年創立)、砧南小(昭和36年)、山野小(昭和39年)、喜多見小(昭和47年)の学区が当時該当した。 新田義興(兵庫島)、喜多見勝忠と江戸太郎重長(慶元寺)、岩崎弥之助(静嘉堂文庫)、犬公方の犬小屋等々、歴史ともつながる。 氷川神社の神楽の由来も、川下りの大役を果たした帰り、いかだ師達が通ったいかだ道のことも考えると楽しい。 毎日定刻に、病院坂から着流し下駄ばきの横溝正史が、野川の方へ散歩にいく上部は、蚊帳に蛍が止まる水清く、遠くに富士山が見える地であった。 昭和47年、砧小から水道道を一期生たちが引っ越して喜多見小が開校。 正門の池、築山、くじゃく飼育、鮭のふ化飼育、教材田、郷土クラブ、かかし祭り、サッカー教室等、特色ある学び舎が、学校と地域と一体となって、歴史を紡ぎ、50周年を迎えられたことは感慨深い。 昔は砧浄水場、薬の「わかもと」の工場前の砧線(砧本村〜二子玉川園)が走り、兵庫島、二子橋の見えるところに読売飛行場があり、川では大川染物店の職人さんたちが長い布を晒していた。 浄水場の土管置き場はいい遊び場で、多摩川では鮎釣りが盛んで、鮎煎餅は人気だった。 農家は桑畑を多く持ち養蚕が主力で、砧小の4年生たちの遠足は、横浜の蚕糸試験場で、輸出の花形の繭・生糸を学んだ。 昭和11年の砧村が世田谷区になった村史や、慶元寺、知行院、光伝寺、永安寺、観音寺、妙法寺、氷川神社等寺社巡りも勉強になる。 祭礼や、盆踊りも地域共同体が大活躍した。 現代も、学校、民家園、のがわが大切に守られるよう弥栄を祈念する。 渡会久子さん、喜多見の地に育ち、砧小卒。 砧小、喜多見小に教諭として勤務。 現在梅丘在住、94 歳。 写真は「風はせたがや」第93回いかだ道(昭和62年7月11日放送)に出演された筆者と郷土クラブの児童たち 春の主な行事、問い合せ先は、喜多見まちづくりセンターで、電話は3417-3401 喜多見北部町会主催、総会は4月17日日曜日で喜多見地区会館 喜多見西部町会主催、総会は4月 喜多見中部町会主催、総会は4月30日土曜日19時で喜多見東地区会館 喜多見東部町会主催、総会は未定 喜多見上部自治会主催、総会は4月未定で自治会集会所 喜多見2丁目団地自治会主催、総会は3月27日日曜日10時で団地集会所 宇奈根町会主催、総会は4月24日日曜日で宇奈根地区会館 鎌田協和会主催、総会は書面にて開催 鎌田南睦会主催、総会は4月24日日曜日で鎌田区民集会所 喜多見児童館宇奈根の渡し実行委員会主催、宇奈根の渡しは5月上旬予定で、多摩川河川敷 駒澤大学玉川校舎付近予定 新型コロナウイルス感染症の予防のため、内容が中止や変更になる場合あります。 編集後記 「のがわ」記念の100号をお届けします。 「のがわ」は1987年10月に第1号が発行されました。 「身近なまちづくり推進員連絡会」会長の故小川兼吉さんは 「このミニコミ紙を通して、この地域をどうすれば住みよい街にすることが出来るか、私たちの身近なまちづくりを考える上で、皆さんとこころのふれあう場として、のがわを大切に育てていきたい」 と創刊の言葉を語られています。 その願いは35年の長きにわたり多くの編集委員で繋がれ100号に達しました。 野川や多摩川を中心とした豊かな自然や、氷川神社や慶元寺など寺社仏閣の歴史探訪や季節の行事、お祭り、そして町会自治会結束での喜多見区民まつりなど地域の行事を記録、その時代その時代の記事として取り上げてきました。 過去の記事を読み返すと今でも読みごたえがあり新しい発見のある原稿の数々です。 今回は第1号以前の、人々の生活や地域の発展、変化、そして地域の自然、歴史を振り返ることを中心に紙面を構成しました。 古き良き喜多見地区の今昔をお楽しみください。 掲載しきれなかった写真や貴重な資料は、喜多見まちづくりセンターの活動フロアー前の廊下に掲示してあります。そちらもご覧ください。 そして今後もこの地域の豊かな自然や歴史を守りながら、一番大切な人々のつながりがさらに発展できるように「のがわ」編集委員一同、創刊の思いを大切に発行してまいります。 荒川真佐子 編集委員会 編集長、荒川真佐子 副編集長、鈴木好子、森谷みどり 編集委員、奥田多佳子、田村弘美、石倉靖久、石井ゆか、佐藤壽夫、尾川史子、階有香、安澤秀f