世田谷区史編さんだより 第10号 令和8(2026)年6月 自由民権家 小泉健次郎の幼少期 ●小泉健次郎と「深大寺文書」  小泉健次郎は、明治期の北多摩地域で活躍した自由民権家として知られる人物です。  嘉永5 年(1852)7 月20 日、健次郎は元宇奈根村組頭役の小泉鐐之助とその妻ハルの長男として荏原郡上目黒村に生まれました。 健次郎が生まれる前年の五月、父鐐之助が宇奈根村方騒動(村役人の不正を鐐之助らが彦根藩に訴えた事件)の首謀者として、田畑・家財没収の上、一家ともども追放されると、上目黒村の知人である加藤勘右衛門宅に身を寄せています。 健次郎生年の4 年後の安政3 年(1856)には、宇奈根村方騒動で処罰された咎人の没収地がその妻子に返還されることとなり、健次郎は、母ハルとともに帰村を許されました。また、帰村から12 年後の慶応4 年(1868)、健次郎は村人に推さ れて数えわずか17 歳の若さで宇奈根村の組頭役に就く こことなります。 さらに幕府瓦解後の明治4 年(1871)3 月には、名主制が廃止され、この時、新設された宇奈根村の副戸長(旧名主役)に就きました。 以後、第十大区十番組(後十一小区)の用掛、郡村制変更後の宇奈根村戸長、宇奈根・岡本・大蔵・鎌田・喜多見五ヶ村連合村の初代戸長、神奈川県議会議員などの職を歴任しました【年表】。  このように、健次郎は17 歳より組頭役を勤め、若い時分より村のために身を粉にして働きましたが、それをさらに3 年ほど遡る慶応元年にも健次郎が村人のために奔走していたことを示す史料が「深大寺文書」の中から見つかりました。  史料を有する深大寺は天平5 年(733)、満功上人によって開創された東京都調布市にある古刹です。 当初は法相宗寺院として開創されましたが、貞観年間(859〜 877)の恵亮のころに天台宗寺院へと改宗し、以後も東国第一の密教道場として栄えました。 江戸時代には、東叡山寛永寺を本寺として中本寺の役割を担い、多摩郡・橘樹郡・荏原郡に点在する47 ヶ寺(寺内子院、門徒を含む)の末寺を抱えていました。 深大寺では、この47 ヶ寺の内、多摩川以北に分布する23 ヶ寺を「川辺三組」と呼んでいます。 現在の世田谷区域に立地する世田谷村久成院・大蔵村永安寺・喜多見村知行院・同村知行院門徒門性房・同村祷善寺(現在は廃寺)・宇奈根村観音寺も、「川辺三組」に分類されていました。 そうした関係で、この五ヶ寺やその門徒に関する史料が今日まで深大寺に伝わっています。  ここで取り上げる史料は、その深大寺に残る宇奈根村観音寺および同寺持ちの宇奈根氷川神社・神明社の社木を巡る訴訟文書です。 訴訟文書の一部は小泉健次郎らが作成しています。 今回はその史料を使って幼少期における小泉健次郎の活躍の様子を見てみたいと思います。 ■小泉健次郎肖像(『神奈川県会史 第2 巻』より転載) 【年表】小泉健次郎略年表 嘉永5年7月 1852年 元宇奈根村組頭役、鐐之助の長男として出生 1歳 安政3年  1856年 上目黒村から母親とともに宇奈根村に帰村 5歳 慶応4年  1868年 宇奈根村組頭役を仰せつかる 17歳 明治4年3月 1871年 宇奈根村副戸長に就任 20歳 明治6年5月 1873年 第十大区十番組(後に十一小区)の用掛に就任 22歳 明治12年2月 1879年 宇奈根村戸長選挙、有効票54票中51票を獲得し、戸長に当選 28歳 明治14年 1881年 北多摩郡の民権結社「自治改進党」に入党 30歳 明治17年 1884年 五ヶ村連合村(宇奈根・岡本・大蔵・鎌田・喜多見)初代戸長に就任 33歳 明治24年8月 1891年 自由党から神奈川県議会議員補欠選挙に出馬、当選 40歳 同年同月 1891年 大日本農会北多摩支会農区委員に就任 40歳 明治25年2月3日 1892年 神奈川県議会議員改選選挙に出馬、再選 41歳 明治26年2月1日 1893年 病死 42歳 ●宇奈根村の寺社木をめぐって  慶応元年(1865)11 月、宇奈根村観音寺および同寺世話人たちは、深大寺に対して、宇奈根神明社の杉や槻(けやき)など社木計5 本を売却して神明社修復の費用に当て、それとは別に観音寺境内の槻4 本も売却して深大寺本堂庫裏の修復費用に積み立てたいと願い出ました。 ちなみに、後者は、同年6 月に深大寺の庫裏が火災で焼失したことを受けての対応でした。  ところが、この宇奈根神明の社木と観音寺境内の木に関して、同年12 月、宇奈根村の六之助と小泉健次郎が、深大寺に対し、その伐採や売り払い方に不正があるので、宇奈根村役人、観音寺世話人などの関係者を呼び、よく取調べてほしいとの訴えを起こします。  その訴えの中で、健次郎たちは、@氏子たちに全く知らされることなく、神明社の大樹が残らず伐り取られたこと。A神明社々木の売り払い金の使用目的が同社の修復であるというのも偽りではないかということ。B深大寺の庫裏再建費用に当てるために伐採した槻(けやき)を一部の村役人が不当な安価で買請け、格別の利潤を得 ているのではないかということ、を訴えています。  その訴えの中で、健次郎らは「私共義はいまだに幼年の事故、いかようの義出来仕べく茂量り難く、日々心痛罷り在り、難渋至極に候、(自分たちはまだ幼いので、この先もどのような事が起きるか想像がつかず、日々心を痛め、困り果てています。)」と述べています。  結局、この一件は、意思疎通の欠如による誤解であったことが判明し、慶応2年4月には済口証文(和解合意書)が作成されています。  ちなみに、健次郎がこの訴えを起こした慶応元年当時、彼はまだ数えわずか14歳(満13歳)でした。  この史料を読んで、まず驚かされることは、健次郎のような年端も行かない少年が、村人を代表して、大人顔負けのきちんとした訴状を作成し、深大寺に訴え出ていることです。  このことは、かつて村のために村役人らの不正を訴え出て処罰された鐐之助の血を継承する健次郎に対して、村人たちの寄せる期待が如何に大きなものであったかを物語っています。  健次郎もまたそうした村人の期待に応えようと意識していたに違いありません。  そうしたことが、のちに自由民権家となる小泉健次郎を形作ったともいえるのではないでしょうか。 「環7」と「環 8」の物語  「環7(かんなな)」「環8(かんぱち)」などの通称で知られる東京の環状道路は、都内西部に延びる鉄道に対し、縦を繋ぐ幹線道路として人々の移動や物流に大きな役割を果たしています。  全面開通から今年でそれぞれ40 年と20 年が過ぎました。  ここでは、私たちになじみの深い、この2 つの環状道路の歴史を探ってみます。 ● 2 本の環状道路 「環7」(「東京都市計画道路幹線街路環状7 号線」)は、平和島(大田区)から、目黒、世田谷、杉並、練馬、北、足立、葛飾の7 区を経て江戸川区に至る全長52・5 qの都道318 号です。 一方の「環8」(「東京都市計画道路幹線街路環状8 号線」)は羽田空港付近(大田区)から、 世田谷、杉並、練馬、板橋の4 区を貫き、北区岩淵町に至る全長44・2 qの都道311 号です。 このうち「環7」は5・5 q(杉並区4・2 q、目黒区2・4 q)、「環8」は8・7 q(杉並区6・2 q)世田谷区内を通っています。 いずれも「環状」と表記されますが、環形が若干いびつなのは、道路建設にあたり部分的に既存道路が利用されたからです。 また、「環8」は当初から半周として計画されていたため、「環7」の外周にありながら、全長は8・3 qほど短くなっています。 (大正8 年)、同10 年5 月には都市計画道路を確定しました。 ところが、同12 年9 月の関東大震災で東京が壊滅的な打撃を受けると、これを契機に「大東京道路網計画」が策定されました。 単なる「復旧」ではなく、「復興」をめざしたわけです。 そのなかには郊外の「幹線放射街路」や「幹線環状街路」も計画され、後者には現在の「環7」「環8」が含まれていました。 しかし、戦時体制への移行に伴い計画は消極化し、そのまま敗戦を迎えます。 戦後は昭和20 年12 月30 日に「戦災復興計画基本方針」が閣議決定され、幹線道路については、翌年3 月の都市計画東京地方委員会で放射道路34 路線、環状道路9 路 線(いずれも幅員40 〜 100 b)が決定されました。 しかし、これも戦後の財政難、労働力不足の中で大幅な縮小を余儀なくされたのです。 ■環状1〜8号線(国土地理院地図Vector より編集・加工) ●東京オリンピック1964 と建設工事 昭和34 年(1959)5 月に第18 回オリンピックの東京開催が決定すると、東京都は同36 年4 月に道路建設本部を設置、正式着工しました。 ただ、以降「環7」と「環8」の建設工事は異なる経緯を辿ります。 幻に終わった昭和15 年のオリンピック会場に予定されていた駒沢競技場が、今回利用されることになったからです。 このため選手村予定地(埼玉県朝霞)と神宮外苑(メインスタジアム)と駒沢とを結ぶ「環7」と「放射4 号線」(国道246 号)が、五輪施設を繋ぐ「オリンピック道路」(通称)として位置づけられ、建設に力が注がれました。 その結果、「環8」は後回しとなり、足立区までだった終点も短縮されてしまいました。  ところが、昭和36 年10 月に「ワシントンハイツ(代々木の米軍住宅地区)」が米国から突然返還されたため、これまで進めてきた「環7」工事を急ぐ必要がなくなりました。 東京都は「オリンピック組織委員会の無定見は遺憾」と批判し、工事変更に伴う都民への経費負担を懸念しましたが、工事はそのまま継続されることになりました(『朝日新聞』昭和36 年10 月8 日)。 このため「環8」より開通が早まり、「環7」は昭和60 年(1985)に、「環8」は平成18(2006)年に、地域住民の協力と長い年月をかけて全面開通しました。 ●道路建設と様々な問題 <用地買収・交通事故> 道路の開削や拡幅には用地の買収が不可欠です。工事を進行しつつも、予定地にかかる住民との移転補償などをめぐる協議は難航を極めました。 区内でも野沢銀座商店街などが強い反対を示しており、代々受け継がれる土地を手渡すことに対し、「時代の流れ」と苦渋の決断を迫られる住民も少なくありませんでした(『朝日新聞』昭和35 年10 月21 日/ 37 年1 月12 日)。 「環7」の「オリンピック道路」に相当する箇所は、開催までになんとか開通しました。 ところが、幅28 メートルに及ぶその道路には、横断歩道や信号機、歩道橋などの歩行者を対象にした設備がほとんど設置されておらず、その後、歩行者との交通事故が相次ぎました。 「通行人の安全忘れた環状七号線」は、地域住民に「魔の環七」と恐れられるほどでした(『朝日新聞』昭和39 年6月24 日)。 <大原交差点> 高度経済成長に伴うモータリゼーション普及や、周辺道路の接続による交通量の増大は、沿道住民に様々な影響を及ぼしました。 「大原交差点」は、今なお都内一交通量の多い交差点として知られています。 排気ガスによる沿線住民の健康被害も深刻です。昭和42 年、周辺住民334 人を対象に健康診断を行ったところ、排気ガスを原因とする症状がみられた70 人中、結膜炎が21%、鼻炎が16%、気管支炎8%、騒音ノイローゼが4%、うち11 人が喘息と診断されました(「大原ゼンソク」)。 「空気を奪われた“環七” の住民」のなかには、酸素吸入器を購入する方までいました(『朝日新聞』昭和41 年11 月8 日)。 ●渋滞緩和と環境改善への努力  こうした問題に行政や企業側も様々な対策を講じてきました。 <立体交差> 「環7」「環8」は、鉄道や幹線道路を横切るため、いくつものアンダーパスやオーバーパスが採用されました。 大原交差点でも渋滞解消と混雑による排気ガス減少効果が期待され、甲州街道側(国道20 号)の立体工事(立体交差部延長462 b/ 43 年10 月起工)が行われました。 <遮断機から信号機へ> 東急世田谷線と「環7」が交差するポイント(「若林踏切」)では、電車を優先通過させる遮断機が数百bの渋滞を引き起こしていました。 このことを作家の曾野綾子氏が「時代遅れの電車優先ルール」と指摘したこともあって、東京都と警視庁、東急が協議して電車も車両同様に信号に従うことになったというエピソードがあります(『朝日新聞』昭和40 年12 月17 日)。 今では、この踏切で信号を待つ電車が世田谷のちょっとした「名物」になっています。 <人間優先の道路―騒音対策> 自動車による騒音や振動の問題は、「環7」「環8」に限られたことではありません。 ただ、世田谷区では、これまで沿道の防音工事助成や車道を削って歩道を拡幅したり、樹林帯をつくる「緑のタテ」などの改善策も講じたほか、「世田谷区環七沿道地区計画」を策定し、建築物の遮音性や防音性に関する規則を定め、住民にも協力を仰ぐなど沿道環境の整備にあたってきました。 ただ、以前ほどではないものの、いまだに完全な解決には至っていません。 環状道路などの建設計画は、大正期に生まれ、幾度にわたり改定され実施されましたが、開通までの長い間に都心周辺の環境も大きく変化しました。 現在では、「環7」や「環8」の地下を利用する「メトロセブン」(環七高速鉄道)や「エイトライナー」などの構想もあり、渋滞緩和や環状方向への縦の移動、地域結束や活性化も期待されています。世田谷の都市的発展とともに、工事や通行のため精神的物質的な被害を受けてきた沿道住民の方々の経験や記憶は、世田谷区民が忘れてはならない<現在進行形の歴史>のなのです。 『世田谷区史 中世編』刊行のお知らせ ■価格/9,000円 ■販売場所/ 区政情報センター、総合支所区政情報コーナー、郷土資料館 ■閲覧場所/区内図書館、郷土資料館、次大夫堀公園・岡本公園民家園 令和8年3月に『世田谷区史 中世編』を刊行しました。 昭和37年に刊行の『新修世田谷区史』を刷新し、新しい史料を交えて中世の世田谷区の歴史をカラー図版とともに叙述しています。 本巻の特徴は、通史と写真を豊富に掲載した資料編を併せて収録した点にあります。  既刊『世田谷区史 近世編』も販売しております。近世編では、「豊田家文書」等の新しい史料から得られた新知見を反映しております。 どうぞお手にとってご覧ください。 『世田谷区史 近世編』訂正のお詫び  令和7 年5 月に販売を開始いたしました『世田谷区 史 近世編』について一部誤りが見つかりましたので、 お詫びして訂正させていただきます。なお、訂正箇所は 下記の通りです。 修正頁修正前修正後 修正頁 375頁下段6行目 修正前( 昭和二年〈一七六五〉 修正後( 明和二年〈一七六五〉 修正頁 542頁上段6行目 修正前寛文四年( 一六四四) 修正後寛文四年( 一六六四) 修正頁587頁上段12 行目 修正前そうした状況の中で、本像の伝来に関しては、昭和六十三年(一九八八)に《木造五劫思惟阿弥陀如来坐像》とともに修復が施された際、像の胎内から以下の納入文書が発見されている。 修正後 そうした状況の中で、本像の伝来に関しては、平成元年(一九八九)八月から同二年三月まで半年以上の歳月を費やして修復が施された際、像の胎内から以下の納入文書が発見されている。 修正頁636頁 修正前下幅 147  修正後 下幅 177 ご購入をいただいた皆様には誠に恐れ入りますがご連絡を頂戴次第、訂正用のシールを郵送させていただきます。区史編さん担当までご連絡ください。 区史編さん担当 TEL 03-3429-4285