世田谷区史編さんだより 第9号 令和7(2025)年3 月 「もう一つの世田谷」調査 北海道には、元世田谷区民が暮らす、「もう一つの世田谷」があります。江別市角山の「世田谷部落」です。 近現代史編さん委員会では、令和6(2024)年9 月9 日〜 11 日に「もう一つの世田谷」を訪問し、かつて世田谷区民だった方々から話をうかがってきました。 写真 現在の北海道中央バス90系統札江線のバス停(右)。左は昭和30年代。 「世田谷部落」とは? 近代以降の北海道には、全国各地から団体や家族、個人など様々な人々が移住してきました。こうした人々によりできた集落は、いずれも「部落」※ と呼ばれていました。戦後に生まれた「世田谷部落」もまさに、その一つです。部落はかつて北海道内にいくつも存在し、現在の北広島市のように、のちに「町」や「市」ヘと発展していくものもありました。 ※北海道では、集落やコミュニティ等の意味で「部落」という言葉が使われます。 江別市と「拓北農兵隊」 現在の江別市は、石狩平野の中心に位置した人口約12 万人の都市です。明治初期には屯田兵村として、そ の後はレンガの産地として発展し、久保栄(くぼさかえ)の小説『のぼり窯(がま)』の舞台にもなりました。現在では農業や酪農も盛んで、隣接する札幌市のベッドタウンでもあります。  昭和20(1945)年7月6日、第一陣として210 世帯の東京都民が、北海道の石狩と空知(そらち)地方へ送り込まれました。北海道開拓協会の「北海道開拓集団帰農者募集」に応じた人たちでした。北海道の農村の労働力が不足したため、東京の空襲罹災者を援農(えんのう)部隊として送り込み、国内の食糧増産に挺身(ていしん)させることが目的でした。彼らは 東京を発つ日、「拓北農兵隊(たくほくのうへいたい)」と命名され、世田谷区の33 戸は「江別隊」として江別町(現江別市)へ移住することになりました。以後、彼らの移住地は「世田谷部落」と呼ばれるようになりました。 表 「拓北農兵隊」の移住先(郡名・町村名・現所在地・移住戸数・旧居住地) 札幌郡手稲村 札幌市手稲区  15戸 杉並区  札幌郡琴似村 札幌市西区琴似 21戸 足立区 札幌郡豊平町 札幌市豊平区  50戸  目黒・荏原・神田の各区 札幌郡札幌村 札幌市東区   10戸  板橋区 札幌郡白石村 札幌市白石区  16戸  大森区 札幌郡江別町 江別市     33戸  世田谷区 空知郡栗沢村 岩見沢市    14戸  葛飾・江戸川の各区・北多摩郡 空知郡角田村 夕張郡栗山町  51戸 品川・蒲田・荒川・王子・城東等の各区 泥炭地での日々 江別隊が現地に到着しても住居はなく、移住地も決まっていませんでした。このため、付近の部落の手伝いをしながら分宿して生活しました。角山地区へ移住が決まったのは戦後の9月、しかも一帯は泥でいたんち炭地でした。「泥炭」(Peat)とは、枯死した植物が低温のため完全に分解されずに残った土のことで、歩くとズブズブと沈むほど水はけが悪く、耕作には全く適さない湿地帯でした。 写真 冬場に乳牛のエサとなる牧草ロールが転がる「世田谷部落」の農場。 明治以来北海道の開拓は、長きにわたりこの泥炭に悩まされてきたのです。部落の人々にとっては、長く苦しい開拓生活の始まりでした。 このため、すぐに15 世帯が部落を離れてしまいました。 泥炭地を耕作地化にするには、他の場所から土を運ぶ「客土(きゃくど)」しか手段はありません。世田谷部落では、地道に農業を学びながら、来る日も来る日も客土を続けました。北海道の過酷な冬も、初めての体験でした。移住地は石狩川と豊平川、世田豊平川に囲まれているため、数度の洪水被害にも遭いました。 「世田谷部落」の人々 世田谷区からの移住者は、養鶏(ようけい)業、俳優、大学講師、鉄工、画家、菓子製造、看護師などの様々な経歴をもった人たちでしたが、誰一人として開墾や農業の経験者は いませんでした。しかし、彼らは負けてはいません。彼らの個性や技術、経験が、過酷な生活に生きる糧を与えることになりました。  昭和22(1947)年1月には、部落内で世田谷青年会が結成され、随筆や挿絵などを掲載した手書きの機関誌『新雪』が創刊されました。また同年12 月には、江別町払い下げの古材などを使って「世田谷倶楽部」(集会所)が建てられました。この世田谷倶楽部は、絵画や 書道、音楽などの勉強会や図書館にも利用され、子どもたちの遊び場にもなりました。さらに24 年には青年会が支笏湖(しこつこ)への「貸し切りバスツアー」を開催したほか、26 年には同会主催の芝居「落武者部落」を上演して好評を得ました。部落の人々は、こうした文化活動を通じて日々の苦しい生活と向き合ってきたのです。 「世田谷部落」の現在 写真 横山民男さん・92歳 写真 山形トムさん・90 歳  かつて世田谷部落に移住し、現在も住み続けている家族は4世帯だけになりました。しかし、世代がかわっても世田谷倶楽部を中心とした地域コミュニティーは今もなお元気です。毎年7月9日には部落の方々や関係者が集まり、ジンギスカンなどで移住記念日を祝い現在の江別での生活について、今も世田谷部落にお住まいの横山民男さん(昭和7年生まれ/太子堂出身)は、「こっちはのんびりしていて、今の生活がいちばんいいよなあ。」と語っておられました。 また、開拓当時の日常を描き、敷地内に「北の世田谷美術館」を開館していた山形トムさん(エノケン一座の山形徳一氏長男/昭和9年生まれ/砧出身)も、「暑さが苦手な自分は北海道に来て良かったと思う。北海道や江別も今や便利になり快適な暮らしに満足している。」と語っておられます。  令和7(2025)年に世田谷部落は移住80 年目を迎えます。ほかの拓北農兵隊の多くが次々と撤退するなか、今なお結束力を維持しているのは世田谷部落だけです。人々の記憶から薄れつつある「もう一つの世田谷」の歴史も、世田谷区の大切な歴史の一頁です。  かつての世田谷区民が、励まし合って過酷な環境を生き抜いた「もう一つの世田谷」。みなさまも是非一度訪れてみてはいかがでしょう。 写真 後左より上林芽里さん(山形氏長女)、横山禎子さん(民男氏夫人)、長山暁子さん(故中村秀哉氏長女)、林真由美さん(山形氏次女)、山形トムさん。前左、横山民男さん。3代目の世田谷倶楽部正面にて(令和6年9 月10 日撮影)。 <参考文献> 太田恒雄『叢書江別に生きる1 世田谷物語』(平成元年) 『世田谷開村五十周年』(平成7年) 見えてきた中世の渡河点(とかてん) 考古学的調査の意義 文献史料が欠落ないし部分的にしか遺(のこ)っていない時、それに代わって考古学的な発掘調査が有力な情報の発信源となることがあります。現在区史編さんを進める中で、中世の世田谷において、遺跡の調査により多摩川を間に挟んだ渡河点(川を渡りやすい地点)の存在が想定されるようになりました。 ここでは、物流の拠点となった多摩川両岸の「宿(しゅく)」がキーワードとなります。 喜多見清水遺跡の「中世」発見  南に多摩川を見渡す場所に、喜多見陣屋(じんや)遺跡( 区遺跡 159)(喜多見1・3・4丁目)という遺跡があります。遺跡は多摩川低地を望む立川面( 最も低位の洪積 台地(こうせきだいち)) の突端に立地する、旧石器時代から縄文・弥生・古墳・奈良・平安の集落と各時代が途切れなく継続する複合遺跡ですが、中世から近世においても豊富な遺構と遺物が出土しています。中世には大溝・地下式坑などの遺構とともに、舶載陶磁器(はくさいとうじき)をはじめとする多くの遺物が出土しました。その名が示すように、近世には喜多見氏(近世喜多見氏と中世木田見氏の関係については諸説あるため、ここでは前者を「喜多見氏」、後者を「木田見氏」と表記する) の陣屋( 旗本・大名陣屋) が存在したところでもあります。  ところで、この喜多見陣屋遺跡(以下「陣屋遺跡」と略)から北東に400m ほど離れたところには、喜多見清水遺跡(区遺跡 264)(喜多見5丁目) という遺跡があります(以下「清水遺跡」と略)。この遺跡も前記した陣屋遺跡同様に、南に多摩川低地を見下ろす立川面の突端に立地しており、第1次調査(喜多見5− 15)では、奈良・ 平安時代の竪穴建物のほか、中世の地下式坑(ちかしきこう)・溝・井戸・方形状土坑(どこう)などが確認されました。(『1991 年度世田谷区埋蔵文化財調査年報』)これらの遺構からは、中世から近世初頭にかけての舶載青磁と白磁、瀬戸美濃系の 卸おろしざら皿・縁釉皿(えんゆうざら)・志野皿・擂鉢(すりばち)、肥前系染付皿( 初期伊万里)、常滑甕(とこなめかめ)、また石臼(いしうす)や板碑(いたび)、「元豊通宝(げんぽうつうほう)」や「永楽通宝(えいらくつうほう)」などの銭貨が出土しています。 遺構と出土品から、清水遺跡は生活物資の「集積所」と判断されますが、とりわけ、そこから出土した遺物は 陣屋遺跡で出土した中世の出土品にきわめて近似してい ることが注意をひきます。  ちなみに、清水遺跡ではこれまでに4回の調査(第1〜第4次)が実施されていますが、中世の遺構と遺物がまとまって出土したのは第1次調査地点に限られます。周辺でも唯一陣屋遺跡を除けば、中世の遺跡は知られていません。そしてこうした状況から、すぐに想起されるのは、陣屋遺跡との関係です。 写真 銭貨の出土状況(9号方形状土坑) 写真 第1次調査区調査風景(南から) 渡河点付近にあった「宿」  清水遺跡の第1次調査地点は現在の多摩堤通りとそこから南へと枝分かれした道とに挟まれた、いわゆる「Y字交差点」の内側にあります。南に岐れた道は、俗に「筏道(いかだみち)」と呼ばれ、かつて炭や薪などを運んで多摩川を下った筏師が帰路に利用した道でした。この道を西へたどれば、かつて喜多見の「本村」と呼ばれた知行院や慶元寺、氷川神社方面へと到り、陣屋遺跡もその中にあります。 江戸時代後期の地誌である『新編武蔵国風土記稿』には、清水遺跡のあたりをかつて「下宿(しもじゅく)」や「宿(しゅく)」と称しており、今でも第1 次調査地点最寄りのバス停が「下宿(しもじゅく)」と名付けられているのも故なしとしません。  以上を踏まえると、清水遺跡第1次調査地点は単なる物資の集積所ではなく、陣屋遺跡やさらにその先へと到る出入り口に設けられた宿関連の施設であったと考えるのが妥当です。  一方、陣屋遺跡と対面する多摩川右岸の川崎側には「宿河原(しゅくがわら)」という地名があります。前記した「新編武蔵国風土記稿」によれば、橘たちばな樹郡ぐん稲毛領の「宿河原村」に「村内に宿(しゅく)と云小名あり、( 略) もとより多摩川の河原なれば宿河原を以もって村名とするならん」とあり、宿(しゅく)を「村の東なり」と記しています。つまり、少なくとも江戸時代後期には村名の由来が失念されていたことが分ります。 このように考えれば、多摩川を隔てた両岸に、中世に宿(しゅく)が存在していた可能性は大きいと思われます。そして、宿(しゅく)どうしを結ぶ要衝には木田見氏の拠点が存在していたということになります。 図 中世の渡河点推定図(国土地理院地図に加筆) 中世の渡河点を領した木田見氏  多摩川を挟んだ中世の渡河点は、生活物流を担う宿(しゅく)同士を繋つなぐための重要な場所であったのは間違いありません。 多摩川の流路は時によって頻々(ひんぴん)と変化するので、その場所を特定することはできません。しかし概ね右岸は宿河原、左岸は陣屋遺跡からやや西寄りの多摩川沿いにあったと想像されます。おそらく、そこが中世の渡河点であったと考えるのが自然です。  ちなみに、清水遺跡の発掘調査を発端として、歴史地理的環境から察するなら、宿(しゅく)の管理やその権益などを一手に握っていたのが木田見氏であった可能性があります。その見解が妥当なら、それこそが、木田見氏がこの地を存立の要(かなめ)とした大きな事由であったと考えられるでしょう。 <参考文献> 『世田谷旧村古地名集』昭和58 年 世田谷区教育委員会 『世田谷往古来今』平成29 年 世田谷区 お知らせ 令和7年3月に『世田谷区史 近世編』を刊行します。続いて、7年度内に中世編、以降令和10年度までに近代編、原始・古代編、現代編の刊行を順次予定しています。 どうぞご期待ください。 聴かせてください・・・ 戦時中のお話、戦後のお話、聴かせてください。 戦争体験、学童疎開、学徒勤労動員、占領下の様子 など、皆さまに直接伺って記録に残していきたい と思います。口述記録は現代史の大切な資料です。 ちょっと待って !捨てる前にご連絡を。 皆さまのお宅の押入れや物置に、古い写真やアルバム、日記、手紙、はがき、書類、レコード、戦前の新聞、家計簿、雑誌などが眠っていませんか? これらは貴重な歴史資料かもしれません。捨てられる前に、まずはご連絡ください。担当が伺います。 【問い合わせ先】 〒154-0016 東京都世田谷区弦巻3-16-8 世田谷区教育会館3階 世田谷区政策経営部政策企画課 区史編さん担当 TEL 03-3429-4285 FAX 03-5432-3047