下馬地区の紹介

最終更新日 平成26年10月21日

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下馬地区の概要について

下馬地区は、下馬1丁目~6丁目及び野沢1丁目~4丁目で成り立っており、面積は約2.1平方キロメートル。 地形は、台地と低地から成り、起伏が多い。 世田谷区の東の端に位置し、目黒区に接している閑静な住宅地である。

最寄りの駅は東急田園都市線三軒茶屋駅と東急東横線学芸大学駅だが、管内には鉄道の駅がないため、公共交通機関はバスのみ。国道246号線、環状7号線、駒沢通り、三宿通りに囲まれるような形で、中央に明薬通りが通っている。

公園が多く、緑豊かな地区である。中目黒まで続く蛇崩川緑道は人気の散歩スポット。公園や緑道には、地域の方が、世田谷区と「花による緑化推進協定」 を結んで管理している花壇が増えてきており、まち全体で緑化の推進と啓発に努めている。

歴史

昔は水田や畑など農業を営む住民が多い所であったが、明治30年(1897年)にこの地区の北部も含めた地域に駒沢練兵場ができた。練兵場ができてから交通量も増し、道沿いに商人や職人も多く住むようになり人口も増えた。また、明治40年に玉川電車が新大山道の路面を通るようになり、昭和2年には東横線が渋谷から丸子多摩川まで開通し、近くに祐天寺駅もできた。さらに、昭和5年には下馬に、昭和8年には野沢に区画整理組合が認可され宅地化が進む中、昭和10年に青山師範学校(現東京学芸大学)が現在の下馬4丁目に移転してきた。青山師範学校はその後小金井市に移転し、跡地は東京学芸大学附属高校になっている。その後、環状7号線ができたり道路が整備され、現在は住宅地となっている。

地名の由来

下馬

源頼朝が蛇崩川の湿地を馬で渡ろうとした時、その芦毛の馬が沢に落ちて死んでしまった。頼朝が「以後この沢を渡る時は、馬を引いて渡れ」と命じたことから、「馬引沢」という地名が生まれたという。馬引沢村は、近世になって上・中・下の三村にわかれ、このあたりは下馬引沢村となった。

野沢

野沢村はもと下馬引沢村の一部で、馬のまぐさを取るための原野であった。近郊農村の開発が行われるようになった江戸中期、荏原郡六郷領沢田(大田区)の七右衛門(田中氏)と葛飾郡葛西領(江戸川区)の野村次郎右衛門が協力してこのあたりを開墾した。野村氏の「野」と沢田の字の「沢」をとって野沢村ができたといわれている。

管内の施設

小学校が3校、中学校が1校、児童館と図書館がそれぞれ1か所、地域のコミュニティ活動や文化的活動などに利用できる区民施設が5か所、保育園が7園、幼稚園が3園、公園が12か所ある。また、管内のほぼ中央に東京学芸大学附属高校がある。

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世田谷総合支所 下馬まちづくりセンター

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