世田谷 ボロ市 東京都指定無形民俗文化財 ボロ市のはじまり ボロ市のはじまりは、遠く四百四十年の昔に開かれた楽市にさかのぼります。当時関東地方を支配していた小田原城主北条氏政は、世田谷城主吉良氏朝の城下町である世田谷新宿に、天正六年(1578年)に楽市を開きました。楽市というのは、市場税を一切免除して自由な行商販売をみとめるというもので、毎月一の日と六の日に月六回開いていたので六斎市ともいいました。当時世田谷は江戸と小田原を結ぶ相州街道の重要な地点として栄えていました。この市により、これらの地方の物資の交流はいっそう活発になり、江戸と南関東を結ぶ中間市場としてかなり繁栄したであろうとおもわれます。  ところがこのような賑わいも、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされて、徳川家康が江戸に幕府を開くにおよんで急速に衰えていきました。世田谷城が廃止され、世田谷新宿が城下町としての存在意義を失い、楽市はなくなりましたが、その伝統は根強くつづけられ、近郷の農村の需要をみたす農具市・古着市・正月用品市として毎年十二月十五日に開かれる歳の市として長く保たれたのです。明治の世になって新暦が使われてから正月十五日にも開かれ、やがて十二月十五日、16日の両日、正月にも十五日、16日両日開かれるようになり現在いたっています。 ボロ市の名の由来  戦国時代に楽市として世田谷新宿に開かれた市は、徳川時代になって市町という名のもとに開かれていましたが、後に農家の作業着のつくろいや、草鞋に編みこむボロが安く売られるようになって、いつとはなしにボロ市の名が生まれました。 ことに草鞋をボロといっしょに編みこむと何倍も丈夫になるというので、農民は争って買いました。農家にとって農閑期の夜なべの草鞋作りは、大切な現金収入の副業だったのです。明治中頃までの市の最盛期には、ボロ専門の店が十数件も出て、午前中にはほとんど売り切れになったといいます。もちろんボロ市といってもボロを売る店ばかりではなく、農具、日用品などに店が道の両側にところせましと並んでお客をよびこんでいました。 昭和のはじめ頃から見せ物小屋や芝居小屋までかかりました。商品の売買と共に娯楽の場でもあり、親戚、知人の旧交をあたためる時でもありました。大正から昭和にかけて出店数は八、九百店から多いときは二千店にもなりました。しかし、近頃は交通量の増大と共に出店数は六、七百店に減り、場所もせばめられました。商品も農耕具、古着などのボロ市的な特徴のあるものは少なくなり、変わって玩具、装身具、植木類等が多く売られています。  古着類がわずかにボロ市の名を保っているといえるでしょう。