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「せたがやの教育」95号(8面)

更新日:平成27年12月19日

ページ番号:0143649

 インタビュー 教えて! せたがやの星【第2回】   映画監督 周防 正行さん

世田谷区ゆかりの著名人にご自身の子どもの頃やお仕事についてインタビュー。第2回目は映画監督の周防正行さんです。映画制作の道に進むまでのことやその楽しさを語っていただき、さらに読者の皆さんへのメッセージも頂きました。

 周防正行(すお・まさゆき)さん

1956年10月29日生まれ。目黒区出身だが、世田谷区内の私立中学・高校に通った。大学在学中に映画監督の道を志し、四年生の秋から助監督としてキャリアを積む。84年に脚本・監督デビューし、92年には『シコふんじゃった。』で日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞。96年には代表作『Shall we ダンス?』が同賞13冠を達成するなど数々の映画賞を獲得し、海外でも絶賛された。さらに痴漢冤罪を扱った『それでもボクはやってない』(07年)、尊厳死を扱った『終の信託』(12年)、少女が舞妓を目指し成長する姿を描いた『舞妓はレディ』(14年)など、テーマのユニークさにも定評がある。

※このページでは、広報紙に掲載できなかった部分も含め、インタビュー全文を掲載しています。

 たくさんの可能性がある若者たちへ。「君たちが思うより、世界はずっと広い」

 文学と映画に目覚めたきっかけは「先生」

 ―まず子どもの頃についてお伺いします。野球と映画に熱中されていたそうですが

周防監督「初めて子どもだけで見に行った映画は、『モスラ対ゴジラ』でした。文部省推薦の文芸作品のチケットを学校でもらい、その併映が『モスラ対ゴジラ』でした。最初は怪獣映画に夢中になっていたけど、昔の映画は2本立てなので若大将シリーズを見るようになり、田中邦衛さんや加山雄三さんを好きになりました。今より楽しむものは少なかったので、映画にはまるのは特別なことではなかったです。怪獣が見たい、若大将が見たいという気持ちだけで、映画監督になりたいなんて思いもしませんでした。テレビでも洋画劇場が盛んだった時期で、大人向けの映画も背伸びをして見る感覚で、わからないことがいっぱいあっても、そこが魅力でした。「十二人の怒れる男」、「大脱走」等、色々なものをたくさん見ました。」

―野球も小さい頃から始めていたそうですね

周防監督「小学校に入る前からです。近所のお兄ちゃんたちと空き地で遊んでいましたが、僕がそのメンバーの中で一番年下でした。みんなのあとにくっついて、必死に追いかけて遊んでいました。小学校に入りグローブを買ってもらって少年野球を始めました。小学校2年からはスワローズのファンになり、テレビやラジオの中継も楽しみにしていました。」

 ―今までのお話を聞いておりますと、活発なお子さんだったような印象を受けます。

周防監督「そうですね。運動は大好きで、体育の成績はよかったです。サッカー、バレーボールなど、スポーツは何でもやりました。東京オリンピックの時に小学生で、野球以外のスポーツもすごく興味を持つようになり、バレーボールは母親とよく庭でやっていました。」

 ―子どもの頃はどんな職業に就きたかったのですか?

周防監督「車が好きで、車のデザインをやりたいと思っていました。工学系ですね。また、算数が得意でしたので世田谷区にある武蔵工業大学(現・東京都市大学)の付属中学、高校に進学しました。子どものころの趣味はミニカーを集めることで、車の絵ばかり描いていて、深く考えずに工学デザインが充実していそうな学校へ行こうと、自分で決めました。でも、本当は近所の公立中学に野球部がなく、野球部のあるところに行きたかったのです。」

 ―野球は、残念ながら中学2年生のとき肘を痛めて、おやめになったそうですね

周防監督「中3までやりましたが、2年生のとき肘を痛めました。野球はピッチャーだ、と今でも思っているタイプで、ピッチャーができないんだったら仕方がないと思いました。肘を痛めて投げられなくなり、やめました。

野球をやめて、さて次何をやろうかと思ったときに、本を読み始めたんです。小学生のとき読んだ覚えがあるのは「フランダースの犬」くらいで、ほとんど本を読む習慣がなかったのに、読み始めたら止まらなくなってしまい中学3年から高校卒業までは、ジャンルにこだわらず、ほぼ一日一冊読みました。十五少年漂流記がきっかけになったのを覚えています。手当たり次第、小説、エッセイ、翻訳もの、SF、純文学から推理小説等、一冊の本を読んで、そこから派生する本を選びどんどん読みました。雑多にあんな読み方をした時期はほかにはないです。

そこから現代国語の授業に目覚めました。理数系の学校でしたが、国語や社会の担当にすてきな先生がいて、彼らの授業はチェーホフの短編を読んだり、議論したり、本当に楽しかったです。国語の先生とは、今もつきあいがあります。先生達との良い出会いから、高校2年生のときには文学部に行こうと思っていました。」

 ―当時の世田谷区内の様子や、学校の近くについて覚えていることはありますか?

周防監督「つくづく不思議だなと思うのは、中学・高校が東宝撮影所の隣だったんです。学校の屋上から、東宝の撮影用プールが見えました。未来を予言するかのような場所に通っていたんだなあと思います。仕事で東宝撮影所に行くと、その頃のことを思い出します。まさか大人になって映画監督になってまたここへ来るなんて思ってもいませんでした。」

 ―映画監督の道を目指されたのは、大学生の時だそうですね。

周防監督「大学は、本当はロシア文学科志望だったのですが、フランス文学科に入りました。そこで受けた蓮實重彦先生の映画論の講義に感銘を受け、この道を目指すようになりました。」

 ―蓮實先生の講義は、どのようなものだったんですか?

周防監督「「映画表現論」という講義です。映画の見方に関するもので、「映っているものをまず見なさい」という講義でした。僕らは映画を自分達の理屈の中で読んでいるだけではないかということです。映ってないものを読もうとしていると。蓮實先生のフランス文学の授業は「何が書いてありましたか」で始まります。学生はそれぞれ当たり前のように「自分の解釈」を言います。ところが先生は、「何が書かれているかを訊ねているのです。行間には何も書かれていません。」と、まず書かれていることを正確に読みなさいと教えられます。例えば「母親が死んだ」と書いてあれば、そう書いてあると答えればいいのです。映画も一緒なんです。まずは何が映っているのか、何を見たのか、例えば「ドアが四回映っていました」と見たものを答えるのです。これは目から鱗でしたが、素直に映画に向き合うことができるようになり、どんな映画を見ることも怖くなく、ひるむことがなくなりました。難解な映画なんてないんです。

そこから「僕にも映画がとれるかもしれない」と勘違いして、その気になってしまったんです(笑)。本当に人との出会いは大事だと思います。夢は必ずかなうものではないですが、まずはなりたいと思わなきゃなれませんよね。」

子どもに憧れられる大人になろう

 ―映画のお話もうかがいたいと思います。監督は丁寧に取材をされることで有名ですね。特に心がけていることは何ですか?

周防監督「最初の驚きを忘れないことですね。まず「これってどういうこと?」と思う、好奇心を大切にします。例えば「Shall we ダンス?」では、東宝ダンスホールで踊っている人たちを最初に見たときの驚きや感動を忘れないように撮りました。深く取材していると、全部が当たり前に見えてきて、おもしろくなくなってくることがあります。だからこそ最初の驚きを忘れてはいけない。どの世界でもそうですが専門家であるがゆえに却って気がつかないことがある。最初の驚きは、素人だからこそなのです。それを忘れずに、かつその世界のことを詳しく知ろうと取材しています。実は作品のテーマにした世界を詳しく知る過程が楽しくて仕方がないんです。映画制作のためというより、取材そのものを楽しんでいますね。(笑)」

 ―過去の作品では、「シコふんじゃった。」では大学の相撲部を取材したり「舞妓はレディ」ではお茶屋さんを取材されたそうですね。

周防監督「「舞妓はレディ」はリアルなお茶屋の姿というよりは、リアルなお茶屋の楽しさを映画的に伝えようとした作品なので、映画的な嘘はいっぱいあります。最たるものは突然歌って踊り出すことです。お茶屋さんの遊びは歌と踊りがつきものですが、あえてミュージカルにしたのはエンターテイメントとして京都の良さを伝えるためです。一方、「それでもボクはやってない」は絶対に嘘はつかないようにしました。例えば法廷に窓があれば日が差し込んだり、雨が窓を打ったりと、絵的に作りこめますが、実際に東京地裁に行けば、窓はなく、蛍光灯がついているだけの部屋です。それを見せることがあの映画のテーマでした。どきどきするようなサスペンス映画ではなくて、現実の裁判を見せることをテーマとしてリアルを大切にしました。

同じように詳しく取材しても表現としてどう活かすかは、その映画で目指すべきこと、何を伝えたいかで変わります。「シコふんじゃった。」だって、ある程度アマチュア相撲のリアリズムはおさえているけど、本来女の子が土俵にあがることはあり得ない。学生相撲をリアルに描いて、何か相撲界に一石を投じようとした映画ではないんです。相撲というものに出会ってしまった若者が相撲の面白さに目覚めて、自分の生き方を見つめなおす話だったので、ああした描き方になりました。取材そのものはどんな映画も変わらないんですが、そこで集めたものをどう使って表現するかは、いつも違います。素材集めは一緒でも、料理の仕方を変える感じです。」

 ―周防監督作品はシリアスなものからエンターテイメント性が強いものまで、幅広い印象がありましたが、それは料理の仕方が違うからという事なんですね。

周防監督「自分が興味をもった世界で、さっき言ったように「最初の驚き」を大事に伝えようとすると、裁判を見た驚きは、「現実の裁判はこうなのか。これはひどい」という思いが一番強かったわけです。そうするとこの「これはひどい」という思いは、多くの日本人も裁判の現実を知れば持つだろう、だからこそ現実の裁判を伝えねばならないと、リアリズムを追求しました。自分が興味を持ったものについて、何故興味を持ったんだろうと掘り下げて考えています。「こんな日本人知らなかった」という世界はまだまだあります。それについて愛おしく思ったら、「Shall we ダンス?」のように、観客の皆さんにも愛おしく感じてもらえる作品にしたいと思うでしょう。取材プラス、自分がなぜそれに興味を持ったのかを深く考えるようにしています。」

 ―現場では、どのような雰囲気で撮影をされていますか?

周防監督「それは映画によりますね。シリアスなものはけっこうつらかったです。「それでもボクはやってない」は、竹中直人さんが出るシーンだけ空気がやわらぎますが、他は法廷に入りっぱなしですから、加瀬亮さんもしんどかったと思います。裁判を順番に、時系列に撮っていき、加瀬さんには裁判関連の本をあまり読まなくていいとお話ししました。裁判は驚く事ばっかりだから、その方が演じやすいと思ったからです。」

 ―2012年の作品「終の信託」も時系列に撮影されていますか?草刈民代さんの髪型がだんだん変わっていくので時系列なのではと思いました。

周防監督「そうです。取り調べの前に、なぜ彼女が取り調べを受けることになったのかを、本人に経験してもらわないと、実感を持って演技できません。取り調べが先にあったら、経験していないことを想像して芝居するしかない。リアリズムにこだわって女医さん(草刈さん)が取調室に入るまでに何を経験してきたかをきちっと撮影してから取り調べのシーンをやりたかった。あれも辛かったです。取調室の撮影はほぼ(草刈さんと大沢たかおさんの)二人っきりで、あの長いセリフですからね。でも大沢さんは楽しかったと言って下さいました。こんなタイプの撮影はなかなかないので、役者としての楽しさですかね。」

 ―最後に、読者へのメッセージを。

周防監督「若い人には、たくさんの可能性があります。だからこそ、「君たちが考えているほど世界は狭くはない。もっともっと広くて、知らないことだらけなんだ」と、子どもたちに伝えたいです。60年近く生きてきた僕だって未だに知らないこと、驚くことばかりですから。子どもたちの価値観は、たった10数年生きてきた中で出会った大人や学校に影響されて作られたもの。これからもっと本を読んだり映画を見たりして、学校とは違う世界を知ることはとても大切だと思います。

また、身近に「こうなりたい」という大人がいるかが、子どもたちにとって重要だと思います。生きる姿そのものが美しかったり輝いていたりする大人を、子どもたちは自然と真似します。そんな大人がたくさんいたらいいですよね。憧れることができる大人たちと触れ合えることが、子どもを豊かにするのだと思いませんか。」

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