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平成28年8月の「区長の談話室」(ゲスト:澤地久枝氏)

更新日:平成28年9月12日

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平成28年8月の「区長の談話室」

8月7日・14日放送 区長の談話室「戦争を語り継ぐ」  

(補足)14日は7日の再放送です。

今回の放送では、澤地久枝氏(ノンフィクション作家)をゲストに迎え、戦争体験のお話や戦争の悲惨さを語り継いでいく重要性について、お話を伺います。

※このページの下部「添付ファイルのダウンロード」から対談の模様を音声でお聴き頂けます。

(容量が大きいため、再生に時間がかかる場合があります。)

世田谷区立平和資料館の感想と戦争体験

  • (パーソナリティ)皆様、いかがお過ごしですか。「区長の談話室」の時間です。保坂展人区長、今日もよろしくお願いいたします。
  • (区長)よろしくお願いします。
  • (パーソナリティ)今日は「戦争を語り継ぐ」と題しまして、平和への思いをテーマにお送りしていきます。私たちは今、世田谷区池尻にあります、世田谷公園の中にある「世田谷区立平和資料館」にお邪魔しています。早速今日のゲストをご紹介いたします。ノンフィクション作家の澤地久枝さんです。どうぞよろしくお願いいたします。
  • (澤地氏)おはようございます。よろしくお願いいたします。
  • (区長)よろしくお願いいたします。
  • (パーソナリティ)ようこそお越しくださいました。澤地さんには先ほど、この平和資料館の展示物をご覧いただいたのですけれども、まずその感想から伺いたいと思います。
  • (澤地氏)まだまだ足りないのではないですか。それから世田谷は他の区に比べたら被害がそれほど激しくないですから、これだけ見ていると年表を見ているようなことになりそうですね。でも今、戦後70年あまり経って、今まで石になって「何も言わないで死ぬ。」と思っていた人たちが、「やっぱり言わないわけにはいかない。」とお考えになって、ボツボツ話をしている人がいるし、写真その他の資料も出始めていますから、声をかけられると、ここでもそういうものが出てくると思う。そうすると、それが今の若い人たちと繋がるようなものなのですね。それをやられたら良いんじゃないかなと思いました。
  • (区長)これまで「平和資料室」というかたちで学校の中の教室を使って展示されていて、訪れる人も非常に少なかったんですね。学校の生徒が増えてきていますので教室が足りないと。これがきっかけになって、ちょうど昨年戦後70年だったということで公園の中にこういった場を作ろうと、展示物の方はこれまで展示していたものが移ってきたということになります。
  • やはりこの戦争を語るというのも非常に年々難しくなっていて、戦争体験、特に兵隊として体験した方は、もう90代になっていらっしゃいますね。また、空襲で逃げたという時の体験も、世田谷区でいろんな平和行事をやる時に、子どもの頃にそういった体験をしたという方が多くなってきました。私の世代は戦争体験は当然ない昭和30年、1955年生まれですから、ただ毎晩のように戦争の話を聞いていましたね、食卓で。ですからそこから耳に入ってきて追体験するみたいな要素が少しあったんですけれども、今度自分の子どもの世代はというと、体験がないものですから、ほとんど親が喋った1/100も1/1000も喋れていないということで、どうやって伝えていくかということで、まずはこういう場所を設けたということなんですね。
  • (澤地氏)ええ、学童疎開という今の人には信じられないようなことがありましたよね。縁故のある人はそこへ行くし、何もない人は学校単位でいろんな東北の方へ行ったりするけれど、そこでひもじくて本当に哀れですよね。そしてそこにいるうちに、東京なり都会なりの親たちが死んでしまって孤児となったという人を私も実際に知っていますけれども。まあ戦争下で一般庶民がどんな生活をしていたかということは、声なり何なりで伝わってくると、今の若い人たちは、「ああ、戦争ってそうなのか。」と思うんじゃないかなというふうに思うところもあります。
  • (区長)ちょうど、沖縄の摩文仁(まぶに)にある平和資料館ですかね、やはり沖縄戦の体験を語る一人一人の人の音声が聞けるようになっていましたよね。やはりそういう音声だとか場合によっては映像だとかで、体験を残してアーカイブにして、またそれを後にいろいろな人が聞いていくというふうなことも取り組みたいと思っています。
  • (澤地氏)そうですね。
  • (区長)またこの平和資料館はそんなに広くないですが、今こういう常設で展示をしていますけれども、例えば広島・長崎、あるいは沖縄戦だとか東京大空襲もしかりで、いろいろなテーマに絞って企画展的なことをやったり。隣に川崎市の平和館があるのですけれど、少し交流をして、すでに相当歴史というかそういう集積があるので、そちらで蓄積したものを展示してもらうとかアドバイスをもらうというようなことも考えております。
  • (澤地氏)全国の日本地図を広げて塗っていくと、本当に凄まじい爆撃ですね。最後は、「使うところがないからやけに落としたのではないか。」と思うくらい空襲に来て爆撃をして、「帰りに気がつくとまだ自分のところに爆弾がある。」と、それを落として行ったというから、とんでもない山の中でも空襲があるんですね。まあ空襲の思い出というのも酷いですよ。それと、男の人をみんな戦地へ持って行って兵士として使うのと同時に塹壕堀(ざんごうほり)をやったんですよ、兵器もないから。例えば満州の開拓団なんか典型的にそうですけれども、行ってみると女、子どもしかいないんですよね。満州のような広いバラバラな所に住んでいた人たちが、一村落単位で移動した時にどうなったかというと、そこで集団自決もあったし、親が死んでしまって、お父さんだけはシベリア周りで帰って来て家族が来るのを待つけれども家族は一人も帰って来ないとかね。長野県で「満蒙開拓平和記念館」というのが3年ほど前にスタートして、ここはもう一生懸命集めています。と言うのは、長野は日本中で一番開拓団を出しているんですね、被害も大きいし。やはり80何歳の方が語り部になって「こんなふうでした。」ってやっていて。
  • (区長)澤地さんは集英社新書で「14歳<フォーティーン>満州開拓村からの帰還」を出されていますけれども、澤地さん自身は敗戦は旧満州で?
  • (澤地氏)旧満州の吉林(きつりん)という町です。私はその直前まで開拓団に学徒動員で、女学生も中学生も動員ですから、学徒動員で行って、クラスメイトと2人1組になって泊まり込みで入っていて、電気がなくて水道がないという生活ですよ。そういう生活をしたことがないんですね。
  • (区長)ええ。
  • (澤地氏)もう帰ってきた時は、全身も頭もしらみだらけだった。家というのはないんですよね。中国の人たちがそれまで使っていた泥のレンガを組み立てた泥の家ですよ。
  • (区長)はい、女学生が動員されて行った。
  • (澤地氏)そうです、女学生ですよ。女学校の3年以上は全部動員です。全国、中学ももちろんそうですね。戦争は国家総動員法というのがありまして、昭和13年に決まっていますけれども、もう問答無用で連れて行って、学校の授業なんかなかったですよ。そういう学校生活もあったということなどを今の子どもたちには伝えたいですね。何のためにそうしたかといったら「戦争に勝つため」と言うけれども、「戦争に勝てる見込みがあったか」と言ったらないですよね。
  • (区長)ちょっと下の世代だと、学童疎開ですね。
  • (澤地氏)そうです。
  • (区長)それこそ世田谷からも長野県などにもたくさん行っているんですね。
  • (澤地氏)そうですね。学童疎開というのは、私は可哀想だったと思いますね。でも学童疎開をさせなければもっと子どもたちを死なせることになりましたね、あの空襲ではね。
  • (区長)そうですね。当然14歳というような歳で、今度は労働力として徹底的に使われたということですね。
  • (澤地氏)はい。開拓団になぜやられたかというと、男という男は全部最後の召集で軍隊が持って行っちゃったんですよ。だから村へ行ってみると、電気も水もないという所で若い奥さんが小さな子どもを抱えて留守を守っているけれど、畑なんかできないわけですよ。そこへ女学生といったって、これもまたできやしないんですね、畑なんか知らないですから。というようなことで、そこで敗戦というか9日にソ連が攻めて来た時にみんなそこにはいられないから逃げるんですよね。これがもう本当に痛ましいことになりましたね。
  • (区長)その8月15日を待たずにソ連の参戦ということで、その時はどんな様子でしたか。
  • (澤地氏)ともかく、時計が8月9日になる午前0時を過ぎた瞬間に、私がいたところでは「パーン」とすごい音がして、何だろうと思ったんですね。そうしたら吉林の駅のところに照明弾を落とされたんですね。だから真昼のように明るかったですね。でも他のところではもう、例えば「人間の条件」を書いた五味川純平さんはソ連と満州の国境のところの陣地にいましたから、ものすごいタンクが来るわけですよ。それでもう五味川さんは自分の部下の兵士たちに蛸壺を掘って、その頃の命令は、「ダイナマイトを抱えて行って飛び込んで一緒に死ね。」と「そうやってタンクを潰していけば勝てる。」という言い方だけど、もう見えるところぎっしりタンクが上がって来て、それも見たことないほどの大きなタンクで、ソ連兵はその後ろからついてくるというんですね。もう全滅ですからね、国境線は。生き残った僅かな人の中に五味川純平さんがいて、彫刻家の佐藤忠良さんもそこなんですね。佐藤さんは、自分より年下だけども軍人の訓練を受けて来た上官が、「突撃!」と言って立ちかけたんですって。そこで、「ちょっと待ってください。」と言ったんですね。「よくそれを言えた。」と佐藤さん、後で笑ってらしたけれど。でもそう言われたら気勢をそがれて座っちゃった。その間にタンクが頭の上を通った。佐藤さんは「シベリアの一番酷いところで労働をやるけれども、日本人の誰かがこれはやらなきゃならないと思ったから、私は悔しいとも辛いとも思わないでやってきました。」と。ああいう方だから飄々としてね。
  • (区長)澤地さんご自身は照明弾が落ちた後はどうされたんですか。
  • (澤地氏)その時は何も感じないんですよ。アメリカの飛行機がやったんだと思って。ただ照明弾が落とされるということは異様なことではあるなと思いましたけど、私は三等看護婦見習いで陸軍病院に動員されていたんですね、開拓団の後に。だから学校が教室ですから学校へ行っていましたね。
  • (区長)実際にソ連軍が入って来るわけですね。
  • (澤地氏)入って来ましたね。最初に来た人たちは物を取るのが目的で、それも装飾品とかそういうものには目をつけないで腕時計を取ったんですね。それからしばらくして落ち着いてからは、私は何かあったんじゃないかと思うけれど、みんな北方からの疎開の人が来ていて、私の家も3家族か4家族が一緒に暮らしていたんですね。その中には夫は朝鮮人で妻は日本人で間に小さな男の子が1人いるという人がいて、理髪屋さんなんですよ。父がいつも頭の手入れに行く所の人でね。暴動というのが中国で起きたわけです。中国人が腹を立てて怒っているわけです。それでソ連兵も一緒になって襲撃して大勢の人が殺されたんですね。私たちが住んでいる所もいつ来るかというので、みんなビクビクしていましたけれども、そういう暴動にあって住む家を奪われてしまってもう行くところがないという床屋さんを、父は同情して「じゃあ家に来なさい。」と連れて来てその人と一緒にいたんですけれど、その人はどうしてかロシア語をわずか10日かそこらで覚えて、覚えたのかどうかはよくわからないけれど。ソ連の赤軍将校が2人で入って来て私は捕まったんですよ。男装して、そこには疎開の人で人妻が3人いたんですよ。だいたい栄養失調みたいに男の格好している私になんでこんなサーベルを突きつけて狙ったのか、私はわかりません。でもそれでなんとか、ともかく母が守ってくれたんです。私はだから実際の被害はないですけれど、心理的な被害はずっと何十年か続いていて、ロシアに旅行に行って飛行機を降りた両側にソ連兵が完全武装で立っていた時に、もう立てなくなったんですね。
  • (区長)その時のことを思い出して。
  • (澤地氏)はい。だから恐怖っていうものは、人は忘れていても、生理のひだみたいなところに潜んでいて、何かにぶつかった時には出てくるんだなということを私は経験で知っているわけですね。だから世田谷の方たちだって、もうそういう恐怖を持って生きている若い人はそんなにたくさんあるわけはないですけれど、昭和一桁よりも年配の方たちには、そういう恐怖が心の底におありになるだろうと思いますね。でもこの頃はもう、そうではなくて10代の若い子たちの問題が起きていませんか。例えば10代の子が今のメールや何かを使って詐欺をしたり、それから人を殺したり女の子を犯したりというような。ソ連兵が犯したということと違いますけれど、でも今子どもたちの非行が問題じゃありませんか。
  • (区長)そうですね。子どもたちの非行は30年くらい前、校内暴力がピークになった時が戦後最大のピークと言われているのですが、件数自体はどんどん下がってきているんですね、戦後最低と言われるくらいなんですけれど。ただやはり自分で自分を責めてひきこもる、一歩も外に出られなくて苦しい思いをしている子どもたちは非常に増えていますし、いろんな意味で社会の前途・未来をあまり感じられないということで、非常にシニカルな考え方、もっと言うと自分より弱い人たちを見つけて侮蔑するヘイトスピーチなどもそうでしょうし、あるいは障害のある人など様々、学校とか若者の間で何かそういう傾向が目立ちますよね、非常に。子どもたちの間に「日本が戦争でどれだけの犠牲を払ったのか。」あるいは「アジアの各地で何かあったのか。」ということも知られていないし、今澤地さんの仰った「引き揚げ体験」という、あるいは「シベリアの抑留」とか、そういう歴史的事実はほとんど伝わっていないですね。これは伝えていない我々の責任だと思いますけれども、そこをもう少しきちんと学校教育の中でも、この平和資料館も更に活用して知って欲しいなと思っています。
  • (パーソナリティ)ありがとうございます。まだまだお話は続くかと思うのですが、ここで一旦ブレイクタイムとさせていただきます。ありがとうございます。 

~音楽~

写真8月放送
(左からパーソナリティー、澤地氏、区長)

引き続き戦争体験と平和への思い

  • (パーソナリティ)今日は、「戦争を語り継ぐ」をテーマにノンフィクション作家の澤地久枝さんをお迎えしてお送りしています。先生がご本の中では書けなかった肉声の戦争体験の話を、今こうやって聞いて、自分の心の中がドキドキドキドキ、「ああやっぱり言葉を聴くってすごく大事なことなんだな。」ということを、今本当に感じております。区長、いかがでしょうか。
  • (区長)そうですね、やっぱり戦争って過去のことではなくて今に続いているじゃないですか。世界中で今、ものすごい戦争があるし、この日本がこれからどういう道を歩むかにかけて、やはり過去の戦争をきちっと見る・伝えるってすごく大事だと思うんですね。人生の先輩としてアドバイスをいただければと思いますが。
  • (澤地氏)なかなか戦争の体験を伝えるということは難しい、ないしは不可能だということを私は自分の身内に対して色々努力をしてみて思います。そういう私も戦争を体験したと言えるほどのことは何もないですけれども、ほんの14歳で軍国少女ではね。だけど今から色々考えてみると、これはわかってもらわなきゃならないということは色々ありますね。それは伝えていこうと思って今も努力をしています。一番私がみんなに知って欲しいのは、「ミッドウェー海戦」とこれはアメリカが言った海戦ですけれども、昭和17年6月に日本はもう連合艦隊の総力を挙げて出て行った海戦があるんですね。この海戦で虎の子と言われた大事な航空母艦を4隻と、それから新しい軍用艦を1隻と、5隻が撃沈されただけでなくて、空母に乗せている飛行機が結局帰って来る甲板がないからみんな死んでいるんですね。そのことを調べるような仕事をしましたけれども、アメリカでは同じ海戦で9対1ぐらいでアメリカの死者は少ないですけれど、でもそのミッドウェー海戦で、最初の子どもがまだまだ生まれてこない、顔も知らないという、そういうお父さんの子どもが、お父さんがいなくて生まれてきた後、その子は24歳でベトナムで戦死しているんです。だから1つの戦死者の子どもが、第二次世界大戦の終了の後に戦死しているかどうかということは私のテーマであったわけですけれど、それは具体的にありましたよね。痛ましいところへ行って来ました。私は調べて話をするというようなことが主になりますけれど、今聴いてくださっているおじいちゃまやおばあちゃまになるかもしれないけれど、「自分はこのことは知っているけれどこれはちょっと言いたくはない。」と思っていらっしゃるようなことをボツボツお孫さんに話をしてあげて欲しい。実際にあった話というものは人の記憶に残るし、それからそれは、これからの子や孫やその先のひ孫といったずっと先の未来の世代を考える時に、日本に1人の戦死者も出さないで100年の時間が刻めるかというのは、私は非常に疑問に思っている。でも、そうしたいと思っているんですよ。
  • (区長)はい。是非、区内には被爆体験された方も語り部として活動されていますし、また疎開や澤地さんのおっしゃった「引き揚げ」また「抑留」の体験など、子どもたちの世代にですね、ここ平和資料館でも直接伝えていくようなそんなチャンスをこれから増やしていきたいと思います。
  • (澤地氏)是非お元気でご活躍なさってください。
  • (区長)ありがとうございます。澤地さんこそ、お元気で。
  • (澤地氏)ありがとうございます。
  • (パーソナリティ)今日は、「戦争を語り継ぐ」をテーマに貴重なお話をたくさんしていただきました。澤地久枝さん、そして保坂区長、ありがとうございました。
  • (澤地氏)(区長)ありがとうございました。

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