玉川地域の大山詣と雨ごいの風習(2)

最終更新日 平成23年8月23日

ページ番号 32810

「ふるさと世田谷を語る」(世田谷区)より

用賀村の雨ごい

農家にとって夏の間もっとも心配なのは日照りや冷害です。殊に水不足の用賀では雨が降らないと旱害による影響が深刻でした。そこで農家の人々は神に救いを求めて大山の阿夫利神社へ雨ごいに出かけたのです。

雨ごいに選ばれた2人~3人の者がその前日の昼ごろ村を出て御師の家に泊まり、明朝大山の水を竹筒に貰って大事に村まで持ってくるのです。帰り道では途中で立ち止まったり、休んだりすると雨はその場所に降ってしまうと言われて、途中で休むことはできませんでした。

一方、村では3メートルぐらいの青竹で梵天を作り、これを4人で支え大勢で村境までお水貰いの人を出迎えに行きました。神社にはこのほか八つの四斗樽に水を入れておき、お水貰いの人たちが帰ってくると梵天に幣束をさしてこれに水をかけたり、八つのたるに水を分けて注ぎながら「さんげさんげ六根清浄大山石尊大権現不動明王」と繰返し唱えながら祈りました。このころは水がないので、農園の掘り抜き井戸の水(深さが三百尺ぐらいという)を貰って使ったということです。

この雨ごいで雨が降ると、農民はおしめり正月といって喜び、神社へ集まってお礼に飲んだといい、雨が降らないと二度も三度も雨ごいをしたり、別の場所へ雨ごいに行くなどひたすら祈ったということです。

瀬田の雨ごい

夏の日照りには雨ごいのために、選ばれた若者たち数人が代表となって、この大山へ詣でました。まだ乗物のなかった昔この若者たちは、モモ引きにタビをはき、腰に手ぬぐいをしばり、鈴をつけて鳴らしながら、大山の水を貰うための青竹の筒を持って大山街道を歩いて行きました。出発の時刻は夜の午後8時ごろ、瀬田から大山まで6里~7里の道のりを1時間に1里(3.75キロメートル)くらいのペースで進んだということです。瀬田から厚木までは休む場所がないので歩き続け、そこから先はお茶屋があるので時々休んで、夜明けの午前4時頃には大山のオシ(御師)の家に着きました。ここでオシに祈祷して貰い、頂上近くでご来光を拝んだということです。

この後、奥の院まで行ってお祓いを受け、青竹の筒に水を頂いてきますが、この時大事な水がこぼれないように杉の葉をさしておきました。そしてオシの家で少し休んで午前10時頃に山を下り、帰りは全く休まないで村まで帰って来たのでした。何故ならば途中で休むと、その場に雨を降らせてしまうといわれていたからで、午後3時頃には村へ帰り着きました。

一方、村では残っていた人たちは川向こうまで代参に行った人々を迎えに行きます。その後一同は神社へ参って新しい四斗樽の中に満たしておいた水の中に阿夫利神社から頂いてきた筒の水を入れ、「ヨクシミル」と唱えながら、境内に水を撒き散らしました。

それから、しめ縄を張っておいた次大夫堀へ人々がはだかで入り、予め何百本も作っておいたというわらのつとっこを上と下に10人くらいずつに分かれて、「六根清浄」とくり返し唱えながら、しめ縄の上で投げ合ったということです。その後再び神社で雨ごいを祈願してお清めの酒などを頂いたのでした。こうして雨が降ると、おしめり正月といって神社でお礼の催しが行われました。
その後乗り物が使えるようになってからは電車や自転車で行くようになり、朝早く発てば昼ごろには着きました。

大山講はこの他にも行われたりして、長老の中には50回から60回も通った人もあったということです。

その後農家はどんどん減ってしまい、講は農業協同組合になりました。今では女性も多く参加するようになって、自家用車で行き、山ではケーブルカーを使うようになりました。

オシの家の宿泊代は昭和17年ごろで3円から5円(当時はお米一俵が6円~7円)ぐらいでした。また、講中の人の積立金は昭和30年ごろ千円だったということです。

大山講は現在は玉川神社の大山まつり(7月25日)として、この日には大山阿夫利神社の灯ろうをたてて祀っています。

このページについてのお問い合わせ先

玉川総合支所 地域振興課

電話番号 03-3702-1603

ファクシミリ 03-3702-0942