地名の由来(瀬田・玉川・用賀・上用賀・玉川台)

最終更新日 令和3年9月22日

ページ番号 17067

瀬田・玉川

「瀬田」は「瀬戸」がなまったもので、「瀬戸」とは狭小な海峡という字義であった。しかし、海のあるなしにかかわらず、狭い出入口をいうようになり、狭い谷地も「瀬戸」というようになった。「瀬田」「瀬戸」という地名は、狭い海峡のみでなく内陸部の山間や丘陵地等の谷地に多く見られる。多摩川沿岸から台地中の谷の多い相当広い区域を含めて古くは「セト」と呼んでいたものがいつしかなまって「セタ」となったようである。

明治22年、それまでの奥沢・尾山・等々力・下野毛・上野毛・野良田・用賀・瀬田の8村が合併して玉川村が成立し、瀬田村は大字瀬田となった。明治45年、府県境界の変更があり、多摩川右岸にあった区域は神奈川県となった。昭和7年、世田谷区成立時に、玉川村大字瀬田の区域は、丸子川以北が玉川瀬田町となった。また、丸子川以南と大字諏訪河原字向河原をもって玉川町を新設した。その後、昭和43年~昭和46年の住居表示の実施に伴う町区域の変更で、玉川瀬田町は瀬田1~5丁目、玉川町は玉川1~4丁目に区画された。

用賀・上用賀・玉川台

「鎌倉時代の初期、勢田郷にユガ(=ヨガ)の道場が開設されたのが、用賀の由来」という説が巷間に流布しているが、「鎌倉時代初期にヨガの道場、云々」という事には、然したる根拠がなく、事実とは認めがたい。したがって、用賀の地名の由来については不明である。

明治22年、それまでの奥沢・尾山・等々力・下野毛・上野毛・野良田・用賀・瀬田の8村が合併して玉川村が成立し、用賀村は大字用賀となった。昭和7年世田谷区成立時に玉川用賀町1~3丁目に区画された。昭和43・昭和46年、住居表示の実施に伴う町区域の変更により、上用賀1~6丁目、用賀1~4丁目、玉川台1・2丁目(約4割は玉川瀬田町から)に区画された。

関連リンク

このページについてのお問い合わせ先

玉川総合支所 地域振興課 計画・相談担当

電話番号 03-3702-1134

ファクシミリ 03-3702-0942

(注意)掲載内容に関するお問い合わせについては、回答にお時間をいただく場合や他のお問い合わせ先をご案内する場合があります。