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経堂・宮坂・桜丘

更新日:平成27年4月1日

ページ番号:0038281

経堂

 村の経堂在家という名については、いくつかの説が残されています。

現在、小田急線の経堂駅から少し南側の地には、福昌寺というお寺がありますが、この寺は正しくは「経堂山福昌寺」といい、江戸時代の初め頃に建てられた古いお寺です。当時この地を与えられていた松原土佐守弥右衛門という人が、自分の広い屋敷の中にお坊さんを迎えて開基したものだと言われています。

この松原土佐守という人は、徳川幕府のお抱えの医者(御殿医)として、中国から迎えられ日本に帰化した人ですが、医者なので当然たくさんの本を持っていました。このころ人々は、ほとんど字の読み書きができなかったので、本といえば、お経の本だと思い込んだということです。それに自分の屋敷内にお堂を建てたので、近くの人はこれを経堂と呼ぶようになりました。まもなく、松原氏が常徳院から玄浦和尚を迎えて寺を建て、この経堂の名をとって「経堂山福昌寺」と名づけたのは寛永3年(1626年)のことでした。現在、このあたりには松原土佐守の子孫やその関係者など、松原姓の人が多く住んでいます。

在家という名は出家に対して使われた言葉で、松原氏が自分の屋敷内に寺を建てて普通の生活をしながら仏教を信仰したのでそう言われたもので、経堂と在家がついて村の名になったとされています。

また村の名の起こりになったとされる第二の説は、昔この土地が開かれ始めたころのこと、既に野原の中に一つのお堂が建てられていましたが、その堂の造り方や形が関東地方には見られない京都風のものだったので、人々がこれを京堂と呼び、いつの間にかその字が経堂になったとされています。

さらに三つ目の説は、昔お経の本をたくさん入れた石室を土の中に埋め、そのうえに小さなお堂を建てて村の人々が信仰の糧にしたので、これを経堂と呼んだといわれるものです。在家についてはこの他、田や畑を含む家屋敷を持って住む人々が、何軒かまとまって小さな集落のような形になっているところをいうのだという説もあります。

宮坂

この宮坂の地が歴史に上るのは、寛治元年(1087年)のことで、源義家が後三年の役に勝利してその帰路、世田谷八幡宮(宇佐八幡宮)を勧請したことに始まります。宮ノ坂の地名は、世田谷八幡宮(宇佐八幡宮)の東側の坂道を人々がそう呼んだことから名づけられたものです。

また、宮ノ坂の地名は、住居表示実施以前世田谷3丁目にあった字名で、住居表示実施に伴い宮ノ坂の区域を拡大して町名としたことから、「ノ」を除いて「宮坂」としました。

桜丘

明治時代、桜丘の子どもたちは桜小学校に通っていました。大正11年(1922年)9月に横根村に分教場ができ第二桜尋常小学校(現、桜丘小学校)として独立しました。その後、昭和16年(1941年)には、桜丘国民学校に改名されました。

桜丘という名称はこのとき名づけられたもので、特に桜の多い丘があったからではなく、母体であった桜小学校の名称の下に「丘」の一時を付したものです。また、桜小学校の「桜」という名称は、世田谷城内にあったという「御所桜」という由緒ある桜に因んだものです。 
 

  • 参考「ふるさと世田谷を語る 経堂・宮坂・梅丘・豪徳寺」(世田谷区、平成10年2月発行)

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