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上馬・下馬・野沢

更新日:平成24年2月21日

ページ番号:0038275

上馬

上馬引沢地区(現在の上馬1丁目~5丁目・三軒茶屋1丁目~2丁目・駒沢2丁目3丁目)は、旧駒沢村大字上馬引沢の地でした。かつて、馬引沢村(上郷・中郷・下郷)として存立していた頃の上郷と中郷とがそれに該当します。この地域を特色づけるものとして二つの伝説があります。そのひとつは、大字名となった「馬引沢」伝説でありもうひとつは、小字名で区の花・鷺草と浅からぬ縁を持つ「常盤」という地名の伝説です。「馬引沢」の由来については、ずっと古く文治5年(1189年)に源頼朝が藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して、奥州平泉へ向かってこの土地を通った時のことです。ここ、蛇崩の激しい沢筋にさしかかったところ、突然頼朝の乗った馬が暴れだして沢の深みに落ちてしまいました。急いで馬を助けようとしましたが、まもなく馬は死んでしまい、そこで頼朝は馬を沢沿いの地に葬り、その馬が芦毛だったことから芦毛塚と名づけました。頼朝はこの事故を戒めとして、「この沢は馬を引いて渡るべし」と申し渡したので、以後馬引沢の名がつけられたということです。 この芦毛塚は、今の下馬の地に残されています。

さらに「常盤」についてです。昔、等々力城主大平出羽守の娘は、世田谷御所吉良頼康の側室にあがって常盤御前といいました。頼康の寵愛を受け身ごもったが、他の側室12人から妬まれて頼康の子ではないという噂を流され、身の潔白を綴った文を頼康の届けようと鷺の足につけて離しました。さらに、身の危険を感じた常盤は、城山から逃げ出して弦巻の常在寺まで落ち延び、寺の井戸に守り本尊の鬼子母神を投げ込んで逃げる途中、追っ手により天野間(世田谷1丁目東部)あたりで殺されてしまいました。白鷺狩りに出た頼康は、射落とした白鷺の足についていた文を読み・真実を知ったのは、常盤殺害後であった。その白鷺の落ちたところに鷺草が咲いたと伝えられています。身ごもった子は、現在の駒留八幡神社に葬られ若宮八幡と称されています。

下馬

「馬引沢」の由来については、 すでに上馬引沢で述べたとおり文治5年(1189年)7月に、源頼朝が奥州征伐に向かう途中、この蛇崩川沿いで乗っていた馬が暴れ出して沢の深みにはまって死んでしまう事故に見舞われ、この地では馬は乗らずに引いて渡れという戒めから名がついたといわれています。

しかし、頼朝としては幸先の悪い出来事でした。その時1人の老婆が現れて、馬の死という不吉をはらって戦勝を祈るために、近くの子の神に詣でることをすすめたのでした。頼朝はこれに従って祈願した後、奥州に兵を進めたところ、幸い戦に勝つことができたので、帰りに再び子の神にお礼参りに立ち寄りました。そのとき頼朝が馬を繋いだ松は、駒繋松(今の松は3代目という)と名づけられ、子の神は駒繋神社と改められたということです。

また死んだ頼朝の馬を葬った芦毛塚は、目黒区との境(下馬5丁目42番)に立派な碑が建てられ、蛇崩川には足毛橋と名づけられた橋も残されています。

野沢

野沢村は、昔タッタ原とも呼ばれて、馬引沢村のまぐさ場(馬・牛などの飼料・肥料にする草の採集地のこと)でした。正保期(1644~47年)に荏原郡六郷領沢田(大田区)の百姓田中七右衛門と、葛飾郡葛西領(江戸川区)の百姓野村次郎右衛門が、この地に入植して開発し、万治年間(1658~60年)に馬引沢村から独立して野沢村となったとされています。

野沢という村の名は、野村氏の「野」と沢田の字の「沢」を一字ずつとって野沢とつけられたとされていますが、初めは沢田村、沢田新田とも呼ばれ、元禄の頃は戸数は7軒だったということです。
 

  • 参考「ふるさと世田谷を語る 上馬・下馬・野沢・三軒茶屋・駒沢(1~2丁目)」(世田谷区、平成6年3月発行)

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