大山道の歴史

最終更新日 平成23年8月23日

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大山道は、江戸の赤坂を起点として、青山、渋谷、三軒茶屋、用賀を経て、二子の渡しで多摩川を渡り、溝口、長津田、厚木、そして伊勢原(大山)へと至り、さらには秦野、松田を経て、矢倉沢関所に続く脇街道です。今の国道246号線とほぼ同じルートです。

大山は、世田谷からも関東平野の先に望むことができ、生活に深く関わってきました。

江戸時代中期以降、江戸庶民の間で大山詣が一大ブームになると、夏山の季節、大山へ向かう街道は、大山詣の人々でにぎわい、大山までの経路は、大山を中心に放射状にのび、「大山道」「大山街道」の名で呼ばれました。このため、「大山道」と呼ばれる道は他にもあり、世田谷を通る道は「矢倉沢往還」のことをいいます。

古代のルートと役割

古代東海道の一部として、国司の赴任・帰任、公使の往来、物資や税金の輸送など、都と東国を結ぶ大動脈として重要な役割を果たしていました。

中世のルートと役割

鎌倉時代には、鎌倉と自分の所領を結ぶ道として利用され、小田原北条氏が南関東一帯に大きな勢力を築くと、その本城と支城を結ぶ道として利用されました。ボロ市の前身「楽市」もこの時代に許可され、青山、池尻、三軒茶屋、世田谷新宿を通り、弦巻から登戸、柿生を経て厚木、伊勢原に向かう道が利用されました。

江戸時代のルートと役割

徳川氏は江戸入府と共に、東海道と甲州街道の開削に力を入れたため、その中間にある矢倉沢往還は脇往還として活気を失いましたが、矢倉沢村に関所を設けて以降、寛文年間(1661年~1673年)には街道筋の世田谷(三軒茶屋)、溝口、国分、厚木、伊勢原、矢倉沢に人馬継ぎ立場が置かれ、脇往還の一つとして役割を担いました。

また、東海道は、大名や武士などが多く利用していたため、商人は東海道を避け、88坂7曲がりと言われた大山道(矢倉沢往還)を物資の輸送路として利用しました。秦野のタバコ、相模川の鮎など沿道の特産物もこの道を通って江戸に運ばれました。
その後、世田谷新宿から用賀・瀬田・二子・溝口を通り、上鶴間で本道と結ぶようになり、江戸中期から後期にかけて大山講が各地に生まれ、江戸庶民の間にたくさんの講がつくられると、大山詣が盛んになり、三軒茶屋から新町、二子の近道ができ、これが矢倉沢往還の本道のようになりました。

幕末には外国船の襲撃を恐れてこの往還が盛んに利用されました。

明治時代のルートと役割

明治に入っても大山道は盛んに利用されましたが、明治20年に国鉄東海道線が開通したことにより、大山詣のルートは平塚駅の交通機関が利用されるようになりました。

また、経済界の活況によって東京の市区改正事業を始めとする土木建築事業が進捗し、洋式建築や土木事業が進行すると、資材としての砂利の需要が高まりました。そして多摩川の砂利の運搬のために鉄道の敷設が計画され、明治40年に玉川電気鉄道(渋谷~玉川)が開通しました。

大正時代から昭和時代のルートと役割

大正14年に二子橋が竣工したことにより、二子の渡しはその長い歴史に幕を閉じました。
昭和2年に小田急電鉄が開通すると、大山詣は伊勢原駅が利用されるようになりました。

同年には玉電が二子橋を渡り、その後日中戦争が長期化して大山道の軍事上の重要性が大きくなってくると、昭和16年に二子橋に直結する新道もでき、神奈川県の大山道沿いにも軍事施設が拡大していきました。

戦後、東京オリンピックに向けて道路の拡幅が行われ、さらに自動車産業の発展に伴って自家用車やトラックが急増すると、玉電は「ジャマ電」と呼ばれるようになり、1969年(昭和44年)、首都高速道路3号線建設に伴い「バス路線新設」「新玉川線建設」を条件に廃止されました。

1969年(昭和44年)、新玉川線の第1期工事が着手。1971年(昭和46年)には、首都高速道路3号線が完成し、渋谷から用賀までの国道246号線の上を通るようになり、1977年(昭和52年)新玉川線(現在の東急田園都市線)の渋谷~二子玉川間が開通しました。

出展

「世田谷の古道」(世田谷区教育委員会)
「世田谷の歴史と文化」(世田谷区立郷土資料館)
「世田谷の大山道」(世田谷区教育委員会)
「特別展 大山道と大山信仰」(世田谷区立郷土資料館)
「玉電」(世田谷区立郷土資料館)
「用賀(世田谷区民俗調査第9次報告)」(世田谷区教育委員会、世田谷区民俗調査団)
「大山街道ウォークマップ」(大山街道・R246地域間ネットワーク交流会)
「大山街道今昔物語」(大山街道・R246地域間ネットワーク交流会)

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