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新町住宅地

更新日:平成24年8月26日

ページ番号:0016781

明治末期以降、居住環境の悪化した都心部に代わり、郊外の住宅地開発が進められるようになり、そのさきがけとなったのが新町の住宅地でした。

明治40年に玉川電気鉄道の三軒茶屋~玉川間の開業に伴い、新町駅(現在の桜新町駅)前の旧大山街道から南に引き込み道路をつくり、その先に環状道路を数本設け、それらをはしご状の道路で連絡する形で住宅地が整備されたものです。開発の主体となったのは、東京信託株式会社で、農地であった駒沢村深沢、玉川村下野毛飛地の山林約23万平方メートルを買収し、大正元年から宅地を造成し、大正2年より新町住宅地として分譲を始めました。

土地登記簿から明らかとなった区画数は183区画で、総面積は5万251坪。全体の一区画あたりの平均面積は274.5坪で、環状道路の内側と南側は平均416坪と大きく、中央には3000坪以上の大区画地もありました。環状道路の西側は平均332坪、北側は195坪、東側は120坪と199坪の区画に分かれていました。

住宅地内には、電燈や電話、下水道が整備されており、後には駐在所も設置され、計画された住宅地としては先進的な内容を持っていました。

大正2年5月の第1回分譲以降、大正10年以前に土地を購入した人々の多くは、日本橋などの東京市中の商人でした。資本主義の発達によって社会的地位を高めていった商人が玉電の沿線で交通の便が良く、西方の眺望のよい新町住宅地を別荘として購入する場合が多かったようです。商人に次いで、初期の新町住宅地に入居した人々には軍人や実業家が多く見られました。

昭和に入ると、関東大震災による移住者の増加と資本主義の発達に伴う給与生活者の増加などの背景から、サラリーマンや芸術家の入居が急増しました。また、当時つくられた住民の自治組織は現在も活動しており、居住者の自治意識が当初から高かったことが伺えます。

こうして、分譲開始から30年余りを経て、昭和15年ごろには完成した住宅地となりました。分譲地の完成までに30年という長い時間がかかったことや分譲区画面積に幅があったことなどから、建物の意匠や規模にバラエティがあり、現在の郊外ニュータウンにみられる画期的、無機質な雰囲気と異なり、深みのある人間的なまちができあがりました。

参考 「特別展 玉電 玉川電気鉄道と世田谷のあゆみ」(平成元年12月13日、世田谷区立郷土資料館発行)、「世田谷、町村のおいたち」(昭和57年10月1日、世田谷区区長室広報課発行)

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