兵庫島の由来

最終更新日 令和3年1月12日

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頃は南北朝時代。一度は足利尊氏、基氏を鎌倉にて破った新田義興(義貞の次男)でしたが、まもなく反撃にあって越後へ逃げます。しかし、1358年(延文3年、正平13年)、ふたたび上野、武蔵に姿を現し、新田家再興をはかります。

この義興を謀殺せよと基氏から命ぜられたのが江戸遠江守(とおとうみのかみ)と竹沢右京亮(うきょうのすけ)でした。二人は言葉たくみに義興を誘い出して矢口の渡しで舟に乗せました。舟の中流へ押し出した船頭は、遠江守にいいふくめられていたように舟底の栓を抜いて川へ飛び込み、これをみて遠江守の軍勢が矢を射ります。

新田義興は武将らしく、竹沢たちの手によって命をおとすよりはと、自害してしまいました。供の者で剛勇の聞こえの高い由良兵庫助、由良新左衛門は小船のへさきで、互いの首を切り合い、壮絶な死をとげました。

竹沢たちは主君である足利基氏にこのたびの戦闘の手柄の証として示すために遺骸を捜しました。しかし、由良兵庫助の遺骸だけはなかなか見つかりませんでした。そして数日後、兵庫助の遺骸は足利方の兵の前ではなく多摩川で漁をする人達の前に現れました。心優しい地元の漁師達は夢破れた荒武者の悲運を悼み、遺骸を多摩川の中洲に手厚く葬り、密かに祀ってあげました。

そしていつしか、世田谷区べりにあるこの中州は兵庫島とよばれるようになりました。

参考 「せたがやゆかりの人」(昭和63年3月16日、世田谷区区長室広報課発行)、「世田谷、町村のおいたち」(昭和57年10月1日、世田谷区区長室広報課発行)、「ふるさと世田谷を語る 玉川台・瀬田・玉川」(平成5年10月、世田谷区総務部文化課文化行政係発行)

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