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世田谷地域の歴史コラム

更新日:平成24年8月24日

ページ番号:0120489

駒沢給水塔 

明治の終わりごろ、駒沢村のはずれに、突然降って湧いたような話が持ち上がりました。当時まだ見渡す限り林が続く「でんぎり山」と呼ばれた淋しい地に、ゴルフ場が造られることになりました。そしてたちまち雑木林は切り開かれ、美しい芝が植えられ、大正2年にはこの農村の一画に東京で初めての駒沢ゴルフ場ができて、立派な自動車が通うようになりました。

大正12年5月には渋谷町営水道が完成し、弦巻の字向山(現在の弦巻2-41)が一番標高の高かったことから選ばれて、駒沢給水塔が造られたのでした。当時の人々は、この白亜の給水等を、まるで西洋のお城のようだと言っていました。

  • 参考「ふるさと世田谷を語る 世田谷・桜・桜丘・弦巻」(世田谷区、平成6年3月発行)

玉電の開通と沿線の状況

様々な難関を切り抜けて、着工してから一年後の明治40年3月6日、まず道玄坂上~三軒茶屋間が開通し、続いて4月1日には三軒茶屋~玉川間が開通しました。玉電の開通は世田谷に都会の息吹をもたらす大事件でありましたが、それが直ちに発展につながった訳ではありませんでした。当時を語る文献には、当時の物価としてはかなり高額の電車賃を惜しんで歩く人の方が多かったと記されています。

世田谷辺りの近代化の先駆けとなったのは、明治24年の騎兵第一大隊の池尻移駐に始まる、陸軍の各部隊の移駐並びに練兵場の造営です。玉電開通以前、すでに騎兵第一大隊、輜重兵大隊・近衛輜重兵大隊・野砲兵第一旅団司令部・近衛野砲聯隊・野砲兵第一聯隊・練兵場・衛戍病院などが池尻から三宿にかけてつくられました。このため、三宿の町は、軍の施設を中心とした、軍隊の街としての性格が強まってきたのです。玉電が開通すると、将校などは渋谷付近に家を持って、通勤するようになり、高井戸、下北沢など世田谷方面にも一般住宅が増加しました。

  • 参考「玉電 玉川電気鉄道と世田谷のあゆみ」(世田谷区、平成元年発行 )

目黒川

その昔、目黒川の東仲橋の辺りは大雨になるとよく氾濫しましたが、普段は水がきれいで、ハヤ、コイ、フナなども多く手でつかまえることができました。

子供たちはせきの辺で魚をつかまえたり、夏は泳いだり水遊びをしたり、虫取りをした。昭和10年ごろ、東仲橋の下で大山椒魚が見つかって大騒ぎになったこともありました。

しかし昭和のはじめごろには、川の両側にはメッキ工場や毛織物工場ができて、その排水で目黒川はすっかり汚れた川になってしまいました。

  • 参考「ふるさと世田谷を語る 池尻・三宿・太子堂・若林・三軒茶屋」(世田谷区、平成6年3月発行)

駒沢練兵場

昭和6、7年ごろの4月のこと、駒沢練兵場(現池尻1丁目と2丁目の一部)で思わぬ現象が起こった。練兵場の東のかなたに蜃気楼が見え、その中に白亜の建物などが映って大騒ぎになりました。しかもその翌日にも同じ現象が見られ、二日目には露天まで並び、三宿や太子堂の方からも人がくり出して賑わったということです。誰ということなく、白亜の建物はウラジオストク(ロシア)のものだとの説が立ちましが、今から思えば当時は高台からはるかに品川沖も望めたということで、おそらくは横浜方面の港の洋館が映ったのだろうと回想する人もいます。

  • 参考「ふるさと世田谷を語る 池尻・三宿・太子堂・若林・三軒茶屋」(世田谷区、平成6年3月発行)

蛇崩川

弦巻村周辺はもともと台地であるが、村の西の溜池(ババ池)とその南の溜池(ジジ池)からの湧水を源として流れる蛇崩川が、村の西の方から東へと流れ、この流域は低地帯で田んぼが開けていました。蛇崩川はさらに弦巻神社の近くで支流をも合わせて東へ流れ、目黒川と合流して東京湾に注いでいました。この蛇崩川は、ふだんは細い流れですが、一旦大雨が降るとすぐ増水し氾濫しました。昭和20年代後半には、川の両側に田んぼと麦畑が広がっていました。そして蛇崩川は、メダカやザリガニ取りのよい場所でした。その蛇崩川も、昭和50年代には、暗渠になり、その上は遊歩道と変わっていきました。

  • 参考「ふるさと世田谷を語る 世田谷・桜・桜丘・弦巻」(世田谷区、平成6年3月発行)

常磐姫悲話

今日は、世田谷城主の若君に、新しいお嫁さんが来る日です。若殿は嬉しくて、朝からそわそわしていました。

やがて、お供をたくさん連れて、牛車がお城の玄関につきました。りっぱな牛車から常盤姫の姿が現れると、まわりの人々は、あまりの美しさに驚きました。それから若殿と常盤姫の、仲の良い日々が始まりました。今までお城にいた側室達は、おもしろくありません。ある日、十三人の側室たちは悪い相談をしました。「今度新しく来た側室は、悪い人です。」こうして若殿に、何度も告げ口をしたのでした。とうとう若殿も、その告げ口を本気にして、常盤姫に冷たく当たるようになりました。そこで常盤姫は城を抜け出し、逃げのびようとしましたが、ついに逃げ切れず、上馬の地で自害しました。常盤姫はそのとき既に若殿の子供を身籠っていました。その後、お城に良くないことが続きました。実は、常盤姫は十三人の側室によって陥れたことがわかったのです。若殿は深く反省し、神仏に祈り、死産した子供を駒留八幡宮に若宮八幡として合祀しました。また里の人々は、常盤姫を哀れみ、常盤弁財天を建立して、常盤塚(上馬5-30-19)を立てました。陥れた罪により、死罪にされた十三人の側室達の塚も築き、十三塚としてその霊をなぐさめたということです。

  • 参考「ふるさと世田谷を語る 世田谷・桜・桜丘・弦巻」(世田谷区、平成6年3月発行)

世田谷のボロ市

700店以上の露天が並び1日に約20万人もの人出でにぎわうボロ市は1月と12月の15、16日の年2回、2日間ずつ、代官屋敷を中心に通称ボロ市通りで行われています。

その起源は、関東を制覇した小田原北条氏に吉良家7代目、頼康が願い出て、天正6年(1578)に楽市が開かれたことに始まります。その許可書が『楽市掟書』。毎月6回、5日目ごとに開かれた定期市が六歳市となり、特に戦国大名の保護を受けた市を楽市といいました。押し売り、喧嘩、口論などを禁止したこの楽市は、市場税などが免除され、商人が自由に交易できる場でした。その後、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、年に1回、年の暮れに開かれるだけの歳の市になりました。農具市ともいわれるように、この市では鎌、鍬、手桶、火打石もうられていました。
明治時代には、1月に初市も開かれるようになり、12月の市と共に年2回になりました。日清戦争以降、商品は、古着やボロが多くなり、特に着物のつぎやわらじの補強に使われるボロが盛んに売買されて、午前中には売り切れてしまうほどでしたた。このようなことから「ボロ市」の名がついたといわれています。

  • 参考「一歩二歩散歩」(世田谷区、平成7年3月発行)

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