松原地区の紹介

最終更新日 平成30年6月18日

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松原地区の概要について

松原地区は、松原1丁目から6丁目の1町からなり、面積は1,494平方メートルで、世田谷区の北側に位置し、甲州街道(国道20号線)を境に杉並区と接しています。

公共交通機関は、管内の北側に京王線、東側に井の頭線、南側に小田急線、西側に東急世田谷線が通り、京王線の明大前駅・下高井戸駅、井の頭線の東松原駅、東急世田谷線の松原駅の4駅があります。

幹線道路は、管内の北端に甲州街道、南端に赤堤通りが位置し、東西に走っています。

甲州街道沿いにはマンションが立ち並び、各駅の商店街を抜けると、戸建てを中心とする住宅地となっています。

管内の教育機関は、区立松原小学校、梅丘中学校、都立光明学園のほか、私立の日本学園中学・高校、日本女子体育大学附属二階堂高校があります。また、周辺には明治大学や日本大学文理学部もあります。

また、管内の南側には北沢警察署、北沢税務署、世田谷消防署松原出張所、区立総合福祉センターなどがあります。

地名の起源・地区の沿革

天保元年(1830)に幕府が編纂した地誌『新編武蔵国風土記』、によると、吉良氏が世田谷を領有していた時代、現在の松原地区は世田谷郷赤堤村の一部であったと記されています。天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすに及んで、北条氏と姻戚関係のあった吉良氏朝は世田谷の地を捨て、下総国生実に逃げました。こうして、世田谷の地は北条氏に代わって関東の支配者となった徳川家康の領地となりました。さらに天正19年(1591)、赤堤村は家康の家臣・服部貞信に与えられました。一方、吉良氏の家臣であった松原佐渡守某は世田谷村内にあったその本拠地・松原宿(のちの字松原宿)に土着し、弟2人と共に在郷商人の協力を得て赤堤村内の未開発地を開墾しました。これがのちの松原村です。松原村の名は、開発者松原3兄弟の苗字に由来するといわれています。

しかし、慶安元年(1648)から慶安3年(1650)の調査に基づき作成された幕府の土地台帳『武蔵田園簿』には、「松原村」の記載はなく、赤堤村の記載のうちに「外高九十石 新田改出シ」とあるのみです。もっとも、それより半世紀ほどを経て元禄9年(1696)に作成された『元禄郷帳』には、「一高三百弐拾七石七斗八升七合 松原村」とあるので、この頃、正式に松原村が赤堤村から独立したものと考えられます。天保年間における松原村の戸数は110軒で、以後、明治に至るまで村の戸数はほぼ一定の数値を示しています。明治5年(1872)、陸軍省が当時の国勢を把握するため各府県に調査を命じ作成させた地誌『東京府志料』(明治7年成立)によると、当時の松原村の戸数は107軒で、人口は530人(男281人、女249人)を数えたといいます。

降って明治22年(1889)5月、市町村制の施行に伴い、松原・赤堤・上北沢の3か村が合併して松沢村が成立しました。この時、旧松原村の飛地であった字松原宿を世田谷町に移管し、その代わりに旧世田谷村の飛地・字羽根木の一部を大字松原に編入しました。

さらに、昭和7年(1932)10月、東京市域拡張に伴い、松沢村、世田谷町、駒沢町、玉川村の4町村が合併して世田谷区が誕生しました。その際、松原1丁目から松原4丁目の区域整備が行なわれました。以後、飛地整理等が済み、昭和39年から昭和40年にかけて新住居表示に伴う町区域変更が行なわれ、現在に至っています。

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