烏山地域の歴史

最終更新日 平成24年8月15日

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烏山地域の歴史を紹介します。

旧千歳村

(現在の主な町名 北烏山、南烏山、八幡山、粕谷、千歳台、船橋、上祖師谷、祖師谷、給田、成城)

旧千歳村は、明治22年(1889年)、烏山村、八幡山村、粕谷村、廻沢村、船橋村、上祖師ヶ谷村、下祖師ヶ谷村、給田村が合併して成立しました。成立当初は神奈川県に編入され、明治26年(1893年)に東京府に移管、昭和11年(1936年)に世田谷区に編入されました。文豪徳冨蘆花も農村生活を求めて移住した農村地帯でしたが、京王電気軌道の開通により住宅地として開発され、烏山寺町には26寺院が都心から移転してきました。

出典 「世田谷の地名(下)」「世田谷区歴史・文化財マップ」

旧松沢村

(現在の主な町名 上北沢、桜上水、松原、赤堤)

旧松沢村は、明治22年(1889年)、上北沢村、松原村、赤堤村が合併して誕生しました。京王電気軌道の開通などにより住宅地として開発され、大正8年(1919年)には巣鴨病院が上北沢の西の地に移転してきて松沢病院となりました。昭和7年(1932年)、松沢村は世田谷区に編入されました。

出典 「ふるさと世田谷を語る」「世田谷区歴史・文化財マップ」

甲州街道

甲州街道は、慶長9年(1604年)ごろには江戸から甲州までの三十六宿を、その後さらに六宿を延長して下諏訪までの約五十五里近い道程を完成させたとされています。烏山は、東の高井戸宿と西の布田五宿(調布宿)との中間に位置するため、俗に間(あい)の宿といい、今の南烏山六丁目を上宿、四丁目を中宿、三丁目を下宿と呼んでいました。江戸時代、この街道は砂利道で、高島、高遠、飯田の三藩の参勤交代の大名行列、京都から新茶を将軍に献上するお茶壷道中、甲府勤番の武士、私用で往来する人々が利用する程度だったようです。年貢米、甲州のぶどう、織物、お茶、塩などの輸送路だったものが、その後、富士講や身延参拝などといった庶民の利用が多くなったため賑わうようになったと考えられます。そして、その旅の安全を願うと思われる石仏や庚申塔(現南烏山四丁目一番)などが沿道に建てられました。

出典 「ふるさと世田谷を語る」

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